首都洛陽、西郭は一隅。その店は外観からしても、治觴里に集在する他の酒楼と特に識別されるべき差異が存在する訳ではない。
 城内を更に区分する里の門が閉まるまでには間のある刻限ではあるが、早々に帰路を急ぐ者と擦れ違うのは、憂さ晴らしの酒或いは一夜の忘却を求めて足早に歩を進める影法師。高揚と感傷同時に漂う、日常的で落ち着きない空気。
 黄昏に紛れるように緑の門を潜り、着飾った妓に付き添われて宵の内から三々五々狭い扉の中に消えた男達は、如何にも微行風といった頭巾を外して互いに挨拶を交わし合った。
 外からは個室の連なるように見えるが、中はそこそこの宴席を設けられる程度の広間となっている。目立たぬよう時間をずらして集まった士大夫達は緩やかな車座になって、そこだけは妓楼らしく馴染みの女の酌を受けていた。
 ぽつりぽつりと交わされる会話は典籍の話題が多いが、律の改正や刑の適用範囲について意見を交わす風景も比較的目立つ。任官前の曹操としては本来の目的以上に、雑談のように交わされる実際的な内容を拝聴すること自体が有意義だった。
 満たされた杯を口元に運びながら隣の親友をちらと横目で伺えば、同じく弱年たる袁昭も物堅い会話に口を挟める風もなく、専ら酒食の用に口を開閉している。……用途の余った目は専ら美しい微笑みの女に向けられているようでもあるが。
 やれやれと自分を棚に上げて嘆息したところで、
「何先生がお出でになりました」
気を利かせた店の者が右から二番目の戸から滑り込み、追加の酒と共に最後の同志の到着を告げた。それを合図に妓達はするりと立ち上がる。
「では、ごゆっくり」
 曹操に撓垂れ掛かっていた卞姫も耳元で息を吹き込むように囁き、緩慢な仕草で身を起こした。
 間諜を恐れる意もあって大抵の場合、敵娼を演じる妓達は目立たぬよう設えた隠し戸より退室する。曹操が偶然を装って彼女の尻を撫でれば、
「もう!」
軽く詰られたが、最後に振り返った目は笑い混じりの媚色含み。
 卞姫はつくづく佳い女だった。派手めの顔立ちの割に性格は堅実で、細身だが尻は大きいのも曹操の好みだ。
 今は行きつけの店に気に入りが一人いる状況が望ましいが、此処に集う清流士人らを取り巻く政治状況が――良きにつけ悪しにつけ――変化した暁には、彼女を身請けしても構わないと考えている。
 
 
 
 微量の名残惜しさと共につらつらそんなことを想起していれば、真打ち登場といった空気を纏わせて何が入室したのにまで気が回っていなかった。
「おい、見ろよ」
 袁昭が軽く肘でこちらを突いてきたのは失礼を咎めた故かと、慌てて表情を取り繕う。促されて彼方に目を向け、しかし。
「お前なぁ……」
 呆れを込めて、隣の袁昭にだけ聞こえる小声で呟いた。
「いや、でも凄いだろ?」
 反論しながらも余程だらしなく目尻の下がった袁昭の視線は、何の連れてきた侍童に釘付けになっている。
 ……こいつ、遂に断袖趣味まで……。
 曹操は結構真剣に友の将来を案じたが、何の広い袖の影に隠れるように後をついて歩く童子は、確かにお子様お断わりの曹操が垣間見た限りでもぎょっとするような美貌ではある。
 十程の年齢に見えるが髪は双角に結った童形で、結んだ先を垂らした巾が行歩に併せてひらひらと揺れるのが目を奪う。黒髪が白い肌をますます強調し、長い睫に縁取られた円らな瞳はどこか茫洋と。童子の作り物めいた端正さを引き立てこそすれ、瑕疵の一つとて存在しないのが逆に異様ですらある。

 萌黄色の短衣は膝の下までを覆うやや長めの仕立て、その下から濃茶の袴が覗いている一見簡素な様子だが、纏うのはどれも織りの良さそうな正絹。
 と、見て取る内にも、その子供が何の色子どころか侍童ですらないことに曹操は気付く。
 ちらと振り返っては何事か童子に小声で囁いている何の態度が、年少者を労るだけでない気遣いと敬意を見せている。縋るようにしっかりと袖を掴んだままそれを仰いで、童子も声を潜めて何やら返答している様だ。
「かぁわぃ〜伯求どのに言ったら譲ってくれないかなぁ……」
「いや、あれ侍童じゃないぞ」
「えぇ?」
 興奮のまま身を乗り出す袁昭を制する内にも、曹操の推測は確信となる。
 何が空いた席に座ると同時、同行者を背後に立たすのではなく、隣に誘って同席させたのである。相手を自分と同格だと明確に主張してのけた何に反して、年齢的にも居たたまれないのか童子は傍らで縮こまっている。
 俄かに大きくなった騒めきは、子供に注目し訝しんでいるのが自分達でないことを曹操に告げる。とはいえ、真面目な士大夫のお歴々には好奇や好色ではなく、心当たりのある懸念で童子を俎上に乗せているようではあった。
「あの顔は神君の」「…龍の何れかの……」「しかし年頃からすれば」「まさか!」
 何やらぼそぼそと囁き交わす調子は幾何かの剣呑さを含んでいる。童子の不安気に俯く様子も、周囲の値踏みするが如き眼差し故とも思われた。
「なあ、何先生がお連れになってる……」
 袁昭相手では埒が明かない。もう一方の隣に座る許攸に心当たりを尋ねようとした曹操は、一人泰然とした何が周囲をぐるりと睥睨したことで、その契機を失った。
 話を始める前に、その場の様子を一瞥するのは何の癖である。それを知る曹操以外の一同も忍び声を途切れさせると、改めて真直ぐに視線を投げかけた。
「――今回の洛陽入りの前に、我が畏友たる荀慈明を尋ねたのだが」
 何の声には切り込むような鋭さこそないが、相対した相手を問答無用に己が内に引きずり込む、力に満ちた響きを持つ。
「残念ながら、あれは相変わらず引き籠もり生活を続けるつもりらしい。誘い出すのに失敗した」
 言葉とは裏腹の自慢する口調で、何は賢者と名高い己が親友を俎上に上げた。
「とはいえ欠席ばかりでは慈明も気が咎めよう。今日は代わりに、秘蔵の甥っ子を連れ出すのに成功したよ」
 ほら、と背中を叩かれ、童子はびくりと身を竦ませると顔を上げる。そうして腹を括ったか、目元をきりりと吊り上げた。

 白い頬に血色が浮かび、……突然細工物が人と化した風情。
「諸先生方のご後塵を拝し奉ります。叔父の名代で参りました、……荀が五男のと申します」
 拝詭する動作は驚く程の滑らかさである。小柄な大人が挨拶するかのように曹操には錯覚させられたが、顔を上げれば輪郭の柔らかい、あどけなさに満ちた童子なのであった。
 年に似合わぬ口上も挙措も、体に馴染むまでに礼法を叩き込まれた精華であろう。曹操があの位の年齢であれば、四書五経の暗記を強要されるのに嫌気が差し、早々に卓の前から逃げ出していたものだが。曹操が特別自由にさせて貰っていたのか、学者の家というものがまた特殊なのか。
 曹操を感歎、或いは興がらせた荀家の子息は、今し方の堂々とした様を逆に恥じたか、再び居たたまれない風で俯いた。
 その態度は正しかったというべきかもしれない。阿呆のように「可愛い」を連発する袁昭を除けば、再度巻き起こった騒めきは総じて非好意的なものが大半を占めている。
「……五男と言えば……」
「権勢に惹かれて唐衡の娘と縁組みを結んだという、荀一族の恥曝しと噂の子供だろう」
 先程の曹操の問いに今答えるつもりか、声を潜めた許攸がぼそぼそと囁いた。
「荀慈明どのが寵幸されているとは知らなかったが……」
「っておい、自分で求婚した訳じゃないだろ、あの年齢で」
 望んで宦官の家に養子に入った実父を当て擦られているようで、渋い顔の許攸の過剰な反応が曹操としては面白くない。言わずもがなの反論をすれば、日頃は曹操を馬鹿にすること一番甚だしい袁紹が現金なもので、飛びつくようにぶんぶんと首を縦に振る。
 とはいえ、特に党錮の一番苛酷だった時期を知る者にとって、反感は理屈ではないのだろう。
 「臭荀!」吐き捨てる声が思いの外大きく響く。童子は固く目を瞑り、何は呆れたように苦笑を刻んだ。
「皆の言い分も解る。斯く言う私も先日までは同じように考えていたが、言葉を交わしてみれば児は荀氏の出だけあって中々見所のある子でな。私の見立てでは、王佐の才を備えていると言うべきだ」
 未だ海の物とも山の物ともつかない童子を指して、随分と大きく出たものだ。曹操は何を尊敬しているしその鑑識眼にも重きを置いているが、それでもその大仰な言い様には苦笑させられた。
 他の者とて同じだろう。半信半疑といった体ながら、重ねて童子への反意を口にすればそれを高く評価した何をも侮蔑することになる。嘆息混じりに首を振りながらも、漸う口を閉ざした。
 何としても本心の評価ではないかもしれない。童子の叔父への手前、自らの声望を盾に他の面々に釘を差したのだと曹操は察する。
 
 
 
「……前置きが長くなってしまったな。では本題に入ろうか」
 何食わぬ涼しい表情で、何は話題を切り替える。
 ふと弛んだ空気に曹操も肩の力を抜いたが、にも関わらず途端、息を呑む羽目に陥った。
 渦中から外れた荀が、此方にちらと顔を向けて微笑みを向けた。
 錯覚上で、ふわりと音がしたのを聞く。
「………っっ」
 子供如きに。冷静な部分と、ぼうと痺れた部分に思考が乖離する。
 同志の結束を最重要視する以上、この集会の中だけでは上座下座の別が厳密に決められていない。にも関わらず、自然と曹操や袁紹の一隅は比較的若手の面々が集まって座している。
 童子からすれば、向けられた悪意以外の視線を敏感に感じ取っていたのであろうか。やや遠慮がちな、謝礼のような。
「……おっ、俺に!俺のこと見て笑った!!」
 小声で袁紹が騒ぎ出す。その所為で、我に返った。
「んな訳あるかよ、馬鹿」
 実は曹操も袁紹と同じことを考えていたので、許攸の言葉には苦笑が漏れた。それを揶揄と受け取った袁紹がますます意地を張る。
「あんな子供が初対面の相手を識別出来る訳ないだろうが」
「いや、俺の熱い眼差しが届いたとか」
「はいはい、解った解った」
 口ではいなしたが、特に誰かに視線を向けたとすれば、袁紹に対してではあったろう。間違っても曹操ではあるまい。
「荀家の御曹司を譲ってもらうには、余程栄達しないとな」
「大丈夫だ、ウチなら家格も釣り合う」
 揶揄い混じりのつもりが、自信満々に返されて鼻白む。悪気がないのは知っているが、袁紹のこういう所は好きになれない。
「家格って、嫁に取るんじゃないんだからさぁ……」
 最前までの会話には興味なさそうにしていた張が合いの手を入れたのを幸い、坊ちゃんの相手は任せることにした曹操は口を噤むことにする。
 もう一度無心を装い目を走らせたが、既に荀は俯きがちに視線を落としている。それに意味もなく安堵した。
「ほらそこ、私語は程々に」
 伍瓊が笑い含みに注意したのを機に、袁紹達も慌てて居住まいを正す。
 これ幸いと何のよく通る声に耳を傾けながら、曹操は何故だか思考が散漫となっていくのに我ながら閉口した。今になって酔いが回ったか。まさか!油断をすれば大した破壊力だ。
 別段愚かでなかった筈の親友のようになりたくなければ、今後相対する時があろうとも決して正面から見るまいと思えた。宦官の婿を悪し様に言う面々は、認識として斜めから童子を扱うつもりかもしれない。馬鹿らしいことだが賢明だ。
 
 固い蕾の綻ぶような、厚い雲間から光射すような。
 ほんのり色付く微笑だと、夢想家の魂は告げていた。
 
 
 
 
 
 
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