「これはどういうことだ」
「……………」
呂布が犬の仔でも扱うように襟を掴みぶら下げているのは、ガタガタと歯の根も合わぬ様子の男である。
それをずいと突き付けられても貂蝉の顔色に変化はないが、艶やかな誤魔化し笑いの裏で緊張している証拠、彼女の額を冷たい汗が一条滴った。
「い、犬を食べたのは陳宮ですわ!この者は吾を陥れる為に偽りを強いられているのです!」
今しも振り下ろされんとしていた断罪の腕が、女の告発を聞いて俄かに止まった。
方天画戟の錆となる運命を危うく免れ、気の毒な料理人は九死に一生を得る。腰を抜かしたまま必死に後退さるが、呂布はそんな料理人の存在には見向きもしない。
不意に怒気を仕舞うと、仏頂面で唇を曲げる陳宮の方を真直ぐに見据えた。
むっつりと押し黙る陳宮も主から目線を逸らさず、相手の本心を探るように両者睨み合う。
「……正直に認めても、あんたなら親分は怒らないと思うがな」
他意なくといった風に高順が洩らした呟きは何処に対するものか。同時に貂蝉は冷然と眼を細め、陳宮は嚇と眼を剥いて、同じ動きで高順へと憎々しげな一瞥を向ける。
呂布が一言も発さぬまま視線を外し、興味を無くした素振りで踵を返そうとした。
「――たかが犬ころ一匹!」
その広い背に縋るように、陳宮が声を張り上げた。
「これしきのことで大騒ぎとは、何とみっともない!!」
言い捨てても尚足りないと肩で大きく息をして。
顔を朱に染め何かを堪える表情で、呂布の反応も見ずに逃亡を図る。
文官仕様の裾長い裳がばたばたと音を立てて走り去るのを呆然と呂布は見守ったが、
「余計な口をきくな高順!!」
我に返るや雷鳴轟くが如き怒声を浴びせ、その場に方天画戟を放り投げると大股に歩き出す。
「ぎゃッ!」
態とでなく全く視界に入っていなかったのだろう。座り込んだままの料理人をその拍子に蹴飛ばしたが悲鳴すら聞こえぬ様子で、脇目も振らずに陳宮の後を追っていった。その上に
「ひィィ!!」
手放した得物が料理人のすぐ傍らを切り裂くように落下して、小さく叫んだ男は堪らずに脱兎。一晩経てば城内からも姿を消していると思われる。
高順はといえば、主君に怒鳴り付けられたことを一向に気にした様子なく、小さく笑って放置されたままの方天画戟を取り上げる。
意外に大人しいと貂蝉の姿を探せば、憤りに美貌を歪ませて女は食事を再開させていた。
箸に摘んでいるのは……僅かに湯気の立つ犬の羮である。
「犬を可愛がる優しさが親分の美点なんだよ」
「知っておりますわ」
返答を期待せぬ独白だったが、どんな気紛れか美女は言葉を返してきた。
一度は手に取った箸を憤然と投げ捨てると、朱唇から悩ましい吐息を洩らす。
「奉先さまのそんな甘さが吾は大嫌い」
「でも、……陳宮はそんなところが大好きなのでしょうね」
正しくその通りだったので、高順は黙って頷いた。