「伯益くん」
 ……嫌な相手に会ってしまった。
 そう思っても、大勢の他人に囲まれて暮らしていれば、顔に出さないだけの社交性を身につけるものだ。
「あ、ご無沙汰してます」
 自分でも拱手やら何やら分からない曖昧な礼を執れば、数年来老けた気配の見られない妖怪人間は、表情だけは好々爺のようにやんわり目元を綻ばせた。
「暫らく見ない間にすっかり立派になって」
 どこの親戚のおばさんだ、と言いたいのを我慢する。
「いえ、僕なんてまだまだ未熟者です」
「父君があなたくらいの時分には、そんな謙虚な口は利けませんでしたよ」
「はあ……」
 何を思い出したか、袂の影でくすくすと忍び笑いを洩らす。
 最近はこんな機会も増えて、後宮で公子達と暮らしている時は自分は自分でしかなかったものが、非公式ではあるが幼馴染みの手伝いや名代で表に顔を出すようになると、途端に『故・軍祭酒の遺児』の肩書きが何処までも付いて回る。
 往時の父の印象強さを考えれば致し方ない部分もあると二世ならではの悩みは諦めているが、この相手に限っては自分に父のどんな貌を重ねているやら、薄気味悪い……と言っては流石に失礼か。
「本当にお久しぶりですね。そんなに遠い距離でもないのに、すっかり公事以外の諸々が疎遠になってしまって」
 政権の重鎮が許都からまで態々足を運ぶとなれば、多かれ少なかれ噂雀は浮き足立って囀り回る。郭奕はそんな時は敢えて表へ出て行かないようにしているのだから、顔を合わせる羽目に陥った今の状態こそが不本意にして珍しいというものだ。
「嫁いだ娘の顔もなかなか見られない状態で。そういえば伯益くん、子桓様のご友人でしたよね?長文どのや仲達どのとはよくお話しされます?」
「はい、博識の方々で、色々とご教授頂いてます」
 誰が。てめえの子分なら、あの小姑やらむっつりスケベやらを、なんとかしろよ……とは言えない。自分だけでなく、主人の立場というものも存在する訳であって。
「お忙しいでしょうけど、偶には許の邸にも遊びに来て下さいね」
 避けられているとも知らず、馴々しい言い草。
「ウチの子供達も、昔遊んでくれた伯益くんのことはよく覚えてて、懐かしがってますから」
「へえ、そうなんですか」
 穏やかで幸せな家族の理想が、その邸宅では当然のように存在していると映った。郭奕にとっては、口癖のように亡父が呟いていたような寂しい人とは、とてもではないが思えない。父は勘違いでもしていたのだろうと思える程、父に連れられて訪れた一家に影など見当たらなかった。
 幼い童子をあやす父と、年嵩の子を抱き寄せ微笑む屋敷の主人。郭嘉ですらその場では育児放棄した挙げ句我が子を主家に預けるようなだらしない父親には見えず。郭奕一人が部外者のようで、……そう、真に孤独なのは。
「えぇっ!荀令君、にいらしてたのですか!?」
 立ち話をしているのが目に留まったらしい。目を丸くした官吏が小走りに回廊を駆け寄って来る。覚えのない顔だが、二人の供を従えた明らかに自分より身分が高そうな壮年の男に、慌てて郭奕は頭を下げた。
「正式な用事ではなかったものですから。直ぐに帰るつもりですし」
「いやそんな、折角ですからゆっくりご滞在下さい」
 高官ですら知らないお忍びの来訪なら、郭奕の所まで情報が来ないのにも納得がゆく。
「……ところで、そちらはご子息ですか?よく似ていらっしゃる」
 荀は僅かに首を傾け、黙って微笑んだ。
 決して初めてではないこの瞬間が、父の面影を追われる以上に郭奕にとっては苦痛を呼ぶ。曖昧な苦笑が勝ち誇った薄笑いに見えるのは、果たして目の錯覚だろうか。
「そんなに似てますか…?」
 心許ない呟きには忌避の色は微塵も見えず、芯には顔も知らない女への快哉が隠されていて、――郭奕は叫び出したくなる。
 あなたが、或いは父がどう思っていたとしても、僕は紛れもなく父と母の子だ――!
「伯益くん?長々と引き止めてしまいましたね」
「い…いえ」
「え、ご子息ではない?」
 顔色を変えた郭奕に気付いたか、さり気なく訂正しつつ気遣いを見せる。荀の言葉に心底驚いたように、まじまじと官吏は郭奕を眺め回した。
「――欝陶しいっつの、ハゲ」
 思わず地を出して吐き捨てれば、
「なっ…!?」
 目を白黒させて絶句した。背後で供人が失笑するに至り、怒りか羞恥か顔を真っ赤にする。恥を掻かせた荀にもガンつけてやれば、流石に驚いた素振りで、しかし目が合った途端小さく吹き出した。
 僕は『息子』の模造品ではなく、公子曹丕の粗悪な幼馴染みだと、無言の主張を込めて睨み付けたというのに、この肩透かしといったら。
「一工夫欲しいですね。もう少し頑張りましょう」
 邪気の見えない微笑み。他意のない口振りで人を馬鹿にしたかと思うと、茹で蛸になった官吏を促して別室へと誘う様子。……あの破天荒だった父と何十年も付き合ってきた相手を、まだ見くびっていたらしい。
 完敗。
 次に遭った時は、直接罵詈雑言を浴びせてやろう。立ち去る敵を睨み付け、郭奕は決意した。
 
 
 
 
 
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