「貴方に州をお渡ししたかった」
 騎兵の精強で有名な呂布の一党は良馬を得る独自の伝手と眼力とに裏打ちされ、陳宮が跨る黒毛の脚も素晴らしく捷い。しかし乗り手の技量は如何ともし難く、未練気に昌邑の方角を振り返る間にも、やもすれば先頭を走る呂布から大きく引き離されそうになる。
「気にするな、また機会も巡るだろう」
 敗走とはいえ兵多数を率いての行軍であり、赤兎を操る呂布からすれば歯痒い速度のそれに必死となっている陳宮を呆れ混じりに眺め遣る。
「ですが……」
 本来ならば主の怒りを宥めるのが謀臣の役目であり、一年程の主従関係においても概ね当て嵌まっていた法則が今ばかりは珍しく逆転している。気付き、陳宮は内心恥じた。
「力で負けたのでない。曹操が悪運に恵まれていただけだ。いずれ煮え湯を飲ます」
 きっぱりと確信する声音で呂布は言って寄越す。慰める器用さを持つ人でないことはとうに承知しているから、思うところを述べているだけとは理解しているが。
「ですが、本当に……差し上げたかったのです」
 自分の生まれ育った土地を。適うなら総て、思いつくまま何もかもを与えたかった。
「ふん、本拠は必要だが州でなくとも良かろう」
 陳宮の感傷めいた思いなど呂布は一顧だにしない。
「今まで各地を渡り歩いてきた。今更州だろうが徐州だろうが一緒だ」
「はい」
 鉅野で曹操軍との決戦に敗れ、一旦散り散りになった敗残兵を纏めて張兄弟は雍丘へと軍を向けたが、陳宮は取り敢えず徐州へ身を寄せることを呂布に進言した。牧の陶謙亡き後の今、公孫から派遣され陶謙に鞍替えした劉備とかいう武将が領有している。
 彼の地における大虐殺で曹操を深く怨む徐州の人士は、撤兵を招いた間接的に恩義ある呂布を拒み辛いであろうし、支配権を継いだばかりで地盤定まらない時期だからこそ、呂布の存在が定着する余地もある。袁術本拠の寿春より近いのも望ましい。
 張を嗾ける際には安心させるようなことを言ったが、陳宮は袁術という人間に対して全く信用を置いていない。名門を鼻に掛ける袁術は長安から落ち延びた呂布の受け入れを拒絶した過去もあり直接頼るのは言語道断と言えたが、曹操と敵対を続ける以上、適度に距離を置きつつ今後もその勢威を利用したいところであった。
「だからといって劉備に媚び諂うのは真っ平だぞ。俺は俺のやりたいようにやる」
「当然です」
 元より呂布を交渉の矢面に立たせる気もない。撓められぬままの呂布の価値を、そのままで売り込めれば申し分ない。
「天と地があって俺がいる。それだけあれば充分だ」
 それと赤兎もな。呂布はうっすら汗をかく馬首をひたひたと叩く。昂然と顔を上げるその偉丈夫を、陳宮は野生の獣のような美しさだと思った。
 主の望むまま意を汲むだけの無思慮は佞臣の行いであると陳宮は考えていたが、呂布の眩しさに目を細める都度それは大きく揺らいでいる。
 天下を駆け回る誇り高い野馬は、狭い厩に繋いでおけぬものだから。
 
 
 
 
 
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