私の名は鄭欽。
 知っている人は知っている(かもしれない)。かの三好三国志界において、故・陳宮の義弟かつ曹陳または曹荀の出歯亀という、実に美味しい立ち位置を占める架空キャラである。
 この出自ゆえか陣営内で孤立することも多い私であるが、仮にも参謀職の末席に身を置く以上、賢明な曹公はじめ我が真価を見抜く者とて周囲に皆無ではない。
 


 その時も私の眼前には、呼び出しに応じて司空府内院に設えられた四阿までお出でになった荀文若どのが、やや困惑の態で微笑などを浮かべておられた。その麗しの容に向き合う私の手には、紅脂の入った黒漆の小円盒、紅の艶やかさに負けぬ真っ赤な花薔薇。
 何の前置きもなく婦人の品など差し出され、先方には解せぬとしても仕方ない。
 私は常日頃から生意気そうだと評される笑みを、それでも精一杯感じよく浮かべてみせた。結果は生憎の惨敗らしく、文若どのは常のように苦笑されるばかりだが。
「先日曹公より指摘を受けまして」
 こうして見つめ合っていても埒が明かない。本題に入るべく私は一歩を踏み出す。
「私の考える策は兎も角、発言の際に思慮が足らぬとの由」
 段差を登れば、隔てる距離が不遜なまでに縮まった。ひとまずと花束を差し出せば、存外あっさりと受け取って頂ける。
「そこで曹公の信任厚い文若どのにご指導賜りたく存じまして、これはその手土産です」
 予め棘は抜いてある。頂けた再度の笑みは得心の微笑であった。
 愛でるように顔を寄せられ、当世の張子房は花の芳しさを肺腑にて味わうご様子。直径二寸ほどの小柄な品種ながら、数を集めればそれなりの見栄えはする。無論、薫りは良いものを選んできたつもりである。
「この品々はお義兄さま仕込みの?」
 ふと、初めて私の存在に気付いたような貌をされて。
「いえ、貴方様のやり方に従ったまで」
「そうでした。公台どのはあのような方でしたからね」
 目を細め、真意の読みにくい表情になって文若どのは仰る。今となっては曹軍で数少ない、直截な性情が好ましい我が義兄を悪し様に言わぬ方だった。
「それなら折角の頂き物」
 文若どのは誘うように小首を傾げてみせた。考える時のこの方の癖らしかったが、このように作為をもって為せば、より一層あどけなくも可愛らしい。
「出来るなら早くお見せしたいもの。士元どの、塗って頂けません?」
 未だ私の手の内にある小盒、もう一方の貢物にちらと目を走らせ、にこりと一笑。
 それが貴方のやり方ならば「喜んで」。
 私と然程背丈も変わらぬ文若どのだが、四阿の欄干に腰掛けるようにすれば、自然此方は上から顔を覗き込む姿勢となる。膝に置いた薔薇の花束を握り締め、瞳を閉じて上向く人の白い頬を、もう一方の手で固定するのは……遠慮しておこう。実際に触れてしまっては一転、相手の勘気を蒙る予感がするから。
 右手の小指にひとさし掬い、左手は欄干の柱に置いて、私はそうっと唇に紅色を乗せる。長い睫毛を僅かに震わせ、花の佳人は女人の化粧を受け容れる。
 
 作業を続ける指先にこそ細心の注意を払っていたが、他者の存在に気付かぬ程のめり込んでいた訳ではない。
 私がすっかりと紅を塗り終え上体を起こすと、示し合わせる意図もなく二人揃い、闖入者たる曹公に顔を向けた。それに気圧されたが如く、一歩退く威厳ある筈のお姿。
 予想通り、曹公は表面上必死で平静を取り繕い、内実酷く動揺されておられる。真に平静なら逆に不審を露にして当然だと思うのだが、それにも気付かれぬご様子だ。
「……荀はそのままの方が良いと思うのだがな。真に美しいものには手を加える余地などない」
「有難うございます」
 柔らかく、喜色を穏やかな綻びに滲ませ、文若どのは曹公の決死の嫌味を受け留めた。ここからが本当の指南風景だと、私はいつもの如く傍観者役に回る。
 文若どのは欄干から身を起こして背筋を延ばすと、惜しみなく朱唇を綻ばせる。
「我が君におかれましては、この花が何故に色鮮やかに咲こうとするかご存じでしょうか?」
 そう言って、手の内の薔薇を指し示す。
「そちはどう思っているのだ?」
「恐れながら――」
 背の低い曹公より、まともに並べば文若どのの方が目線は高い。主人の前に進み出た文若どのは、その頬を両手で包み込むように添わせ。
「人に愛でられたいが為、六月の薔薇は深紅に。……」
 僅か低い位置の唇へ落とすよう、ゆるりと己が唇を重ね合わせた。
 私といえども予想外の行動に、つい目を見開いて凝視してしまう。
 長くもない口付けを解かれた曹公も呆気にとられた表情、何故だかその唇は薔薇の花弁を一片銜えている。
 何時の間の早業であったものか、主君に花弁越しの接吻を仕掛けた参謀は何事もなかったかのように私に微笑みかけると、地面に落としていた花束を拾い上げた。
「素敵な贈り物を有難うございました、士元どの。私でお役に立てましたか?」
「――ええ、それは勿論」
 真似など到底出来ないことがようく理解出来た。要は自分の在り方は自分で見出だせということだろう。
 初心な少年であるまいに、花の紅を移され赤面しっ放しの主君。放置してその場を離れた罰か、何処からか話を聞き付け悪鬼の形相で迫りくる某ファン倶楽部の面々から、私は必死の逃走を図る羽目に陥った。
 なので、折角私が丹精込めて塗った紅をすっかり剥げさせる行為を文若どのと行った、不埒な相手を見ていない。


 
 現在私の手元には、紅脂の入った円盒だけが残されている。
 
 
 
 
 
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 この世はとかく興味の尽きない面白い事物に溢れている。
 生来の性格からして斯様ではあった。世を拗ねて斜めに生きている積もりはないが、取り立てて理想も野望もなく、ただ歴史の流れ興味深い事物諸々を眺められればそれで充足を感じ、以上の欲など覚えなかっただろう。
 隠者、処士として人生を終えるが相応しい自分を世に送り出す契機を作った、真逆の義兄。
 一途で直情、そんな陳宮ですら、誰一人にも理解されぬまま死を迎えた。
 その時から鄭欽は、己に関する一切の期待を持たなくなった、かもしれない。
 
 一度傍観者となれば、笑い出したい程に全てが明瞭に見えた。
 参謀としての鄭欽は、作戦立案能力や政治的知見に関しては凡才しか持たない。不思議とその読みが的中するのは、敵や味方の感情が手に取るように理解出来たからに他ならない。
 この年齢まで妻を娶らなかった。子を持つこともこの先一生あるまい。
 功業、悪業で史書に名を残すことも、ないだろうと思えた。
 鄭欽は何事も成さない。全てを捨てた引き替えに超越者の視点を手に入れて、生きた証を何も残さない。
 
「後悔はしていないのですが、ね?」


 誰も居ない自邸の院子、今年の夏も薔薇は咲き誇っている。
 初めて意図を持ってした小細工も、歴史を歪めるには至らないだろう。加速或いは補強しただけ、鄭欽が何も為さずとも、司馬氏の野心によって歴史は同じように動いたに違いない。
 当然だ、そのように己の在り方を定めたのだから。
 今になって、散る花を受け止められなかったことを後悔など。
 そうでなければ、護れただろうか。なんて、らしくない世迷い事。
 鄭欽は知っていた。能力を認めてくれる人なら、少ないにせよ存在する。しかし、誰の脳裏にも自分の……鄭欽の住む場所がないということを。
 一番の理解者であってくれようとしたあの人ですらそうだった。鄭欽個人のことを一度も見てはいなかった。
 しかし、一身に愛を尊敬を忠誠を受けているあの男は、結局自分の心に振り回されるのみで、誰の真情も解することが出来なかったではないか。
 
 手に入れたのがどちらなのか。鄭欽は知らない。後悔など覚えていない。
 ただ言えるのは、微かな痛みと共に思い出される、あの夏の日が輝いていたことだけ。