「きゃあああああああっっ!!」
 耳の痛くなる甲高い絶叫。
 平生は童顔に似合わない掠れたハスキーボイスが魅力なので、尚更どこからそんな高音が出るのか甚だ疑問である。この声聞きたさに悪戯を繰り返しているとも言えるが、
「文偉ちゃんの馬鹿ーっ!」
捨て台詞を残して董允が走り去るに及んで、費は慌てて搨から飛び降りた。
 くすくす笑う『友人』に今日のところは帰るよう小声で囁いて、手早く深衣を羽織ると開け放しの扉を潜る。
 鮮やかな光が内院の灌木に反射して、陽も高くなった今頃になって今日が晴天なのを知った。




「待てったら、休昭」
 床板を踏み壊さん勢いで進む董允に追い付いて、その肩を掴む。
「触らないでっ!」
 無理に振り向かせる。その手を払い除けたのは兎も角、平手が飛んできたのには驚いた。
「馬鹿っ!不潔!!サイテーーっっ!!!」
 泣きながら絶叫された言葉は的を射ていなくもないので、費としては頬を押さえて苦笑するしかない。
「何が可笑しいのさ!?」
 それが怒りを煽ったか、董允は益々垂れ気味の眦を吊り上げた。これは意外と苦戦するかもしれない。
「悪かったよ」
 毎度の文句になら、形ばかりの反省を囁いて肩でも抱いてやれば済む話なのだが。
「声も聞きたくない、消えてよ」
 ここまで強硬な董允は数年ぶりかもしれない。費は武者震いを感じた。
「私の邸じゃん、消えたら何処に行けばいいのさ」
「……っ!その邸で昼日中まで出仕もせず、よ、よ、よりにもよってあんな……!!」
「愛人連れ込んでにゃんにゃん?」
「いやーーーーっっ」
 耳にするのも苦痛なのか、倫理観念の強い幼馴染みは再び叫ぶとその場に座り込んだ。
「休昭、袍が汚れるよ」
「関係ないでしょ、僕を馬鹿にしてるの!?」
「馬鹿になんて……」
 客観的な目で見れば、同衾中の寝所まで故意に同僚を招き入れるのは、高祖と周昌の例を引くまでもなく馬鹿にした行為だ。しかも絶句する相手に向かっての第一声が「まざる?」なら。
「休むなら相応の対価を払って下さいとか言われて、どんなに僕が恥ずかしかったか解る!?丞相も君のこと探してるし、それに」
「だから悪かったってば」
 何やら捲し立てるのを聞けば、董允の怒りは方向性がずれている。……それではつまらない。
「予定してた仕事がかなり早く済んじゃったから。昨夜は息抜きに賭場まで行って、夜遅くなって宮門が閉まったからそのまま私邸に帰ったんだよ。届けなら後で出すからさ」
 董允が後で裏付けを取ることも有り得たので、昨夜はほぼ同じ行動を取っている。
「…………」
 それ自体褒められた仕儀ではないとはいえ、悪怯れない台詞に董允は泣くのを止めて真偽を見定めるように睨み付けてきた。
 探し倦ねて抜け落ちた無表情の中で、差し込む光を乱反射した瞳だけが涙に映えて生気を帯びる。目を逸らした方が問答無用で敗北するのを知っているから、費も妥協せずその目を見返す。此処で負けては全てに意味がない。
「……そう」
 先に目を逸らしたのは、毎度の如く董允の方だった。肝心な所で覚悟が続かない。曖昧な微苦笑を乗せて、ふいと顔を背けた。
「……で?文句は漢臣としての心構えに関してだけ?」
 これで彼我の強弱は逆転した。違うだろうと含みを持たせて囁けば、辛うじて虚脱から立ち直り睨み付けてくる。
 と、それが限界だったか、目尻をじわりと歪ませると、再びべそべそと泣き出した。
「……あの人、誰……?」
 羞恥に頬を紅潮させて、しゃくり上げながら董允はようやく口にした。その董允を抱き寄せて此方の表情を窺えなくすると、費は口元に会心の笑みを浮かべる。
「知らない人」
 嘘である。
「本当……?」
 口では疑念を表しながら、本心ではその言葉に縋り付きたい董允は、あからさまな嘘にも簡単に揺さ振られる。
「賭場で呑み過ぎちゃって、途中からの記憶がないんだ。朝起きたら隣に見覚えのない顔が居て、本当に吃驚したんだよ」
 いけしゃあしゃあと嘘を重ねる口を凝と董允は眺めるが、一度折れると後は疑う気力もないようだった。
「……でも、何で僕を案内して来るのさ……」
 口だけが最後の抵抗を紡ぐのを、
「休昭の来訪を聞いた時には気付いてなかったんだ」
どう考えても無理のある弁明で封じた。
「休昭がわざわざ迎えに来てくれたと聞いて本当に嬉しくて、一目でも早く逢いたくて」
 これだけは嘘ではない。というより今までのはこれに至るオマケのようなものだ。
「そんな……僕まで宮中を抜け出しちゃって、でも丞相が何かあったんじゃないかって心配されてるのを見たら、頭に血が昇っちゃったから……」
 もごもごと説明する董允の口調から既に倹は消えている。
 丞相グッジョブ!と費は此処に居ぬ上司に感謝を捧げた。費の企みを承知の食えない御仁が態とお膳立てしてくれたお陰で、元々冷静でなかった董允はあれだけ取り乱したということだろう。
「丞相には私から言っておくよ」
 お礼を。
 内心の言には気付かず、董允は費の腕の中でこっくり頷いた。
「……じゃあ、早く支度してよね」
 小さく身を捩って日常に埋没しようとする董允をそう簡単に解放する気はさらさらなく、捕らえた感触を確かめるべく抱え直した。
「……ねえ、嫉妬した?」
 怒りが消えたところでトドメの一撃を放つ。
「……うん……」
 泣き腫らした目を伏せ気味に、案の定董允は小さく頷いた。
「私のこと好き?」
「好き……」
 既に「まざる?」は忘れているだろう。或いは手口は透けていても、疲労困憊で投げ遣りな気分になっているか。
 ……子供の頃はちょっと撲つだけでぴいぴい泣き出してどんな言葉でも強要出来たのに、年を取って堅物の正義派官僚が出来上がってしまってからは簡単に口を割らなくなった。おかげで七面倒臭い手順を踏まないと泣き顔すら拝めない。董允みたいなのは泣いてなんぼだと思うのだが、面倒な世の中になったものだ。
 とは言え弁論や駆け引きの類は得意なので、こういう試みも頻る楽しかったりするが。
「ごめんね?」
「……もう浮気はしないでね?」
 ことりと費の肩に頭を凭れかからせ、董允が珍しく甘えるような声を出した。お前は俺の妻か、というツッコミを此処で行なうと全てが台無しなので、費は代わりに
「勿論さ」
と答えておく。
 深く抱き寄せた体をじりじりと空き部屋の入り口まで誘導しながら、一ヵ月程は愛人達の出入りを差し止めておこうと考えていたりする費であるが。
 寂しくなれば、また何か泣かせるようなことをすれば良い。……完全に嫌われない範囲で。
 
 
 
 董允と共に超のつく重役出勤をした費は、早速礼(二人分)を述べに諸葛亮を尋ねた。
「は?何のことです?」
 天井まで積み上がった書類の隙間から、諸葛亮は怪訝な表情を覗かせた。
「え?じゃあ、私に用事と休昭に仰られたのは?」
 本当に何か頼みたいことがあったのか。慌てて居住まいを正す費に頷き、有能な上司は真剣な眼差しを向けた。
「魏延の私に対する感情を聞き出して欲しいのですが。貴方は結構アレとも話しているでしょう」
 ……………。
 この場合「恋愛相談ですかい!」みたいなツッコミでお茶を濁せば良いのか、真面目な顔で承れば良いのか(しかし厭だ)、そもそもツッコミ所多くないか今の発言。魏孔とか聞いてないし。
 社交の天才は珍しく言葉に詰まった。
 
 
結局。

人は誰しも、他人の恋路より自分のことで手一杯である。
 
 
 
 
 
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