私にヨカナーンの首をくださいまし。
――!?
不可視の視線が圧倒的な物量感を伴って叩き付けられる。
呼吸すら止める程の圧力は気の所為と断じるには余りに剣呑で、于禁は咄嗟に神経を逆立てた。
原初の神が闊歩し虫螻の如き命を蹂躙する戦場では、理に合わぬといって己の発する警告を無視していては生き残れない。とはいえこんなものは緊張とは無縁の筈の本拠、馴れた錬兵場で味わうべき感覚ではない。鼻に残る僅かな血臭が現状の判断を狂わせようとするが、反射的に薙ぎ払いたくなる手を押し止めた。
この場に敵は存在しない。自明の事実を確認し、おもむろに振り返る。悠長と称されようとも危険を察知した上で冷静さを保ち続ける努力が、死の踵から自分を救いこの地位にまで引き上げたと承知している。
――果たして、于禁が背後を振り向いた時点では、既に流れ矢の如き圧力は消失している。
錬兵場の広場、離れた建物の回廊、視界に射手の姿は映らぬが。
しかし見据えた視線を直感に従うままずらせば、回廊を曲がり今にも視界から姿を消そうとする背中。地面から高く離れた回廊の床に立つ姿はひょろりと、しかし体格の違いから細い棒のように不安定に感じる。長年見慣れた背中である。
同じ高さで並び立っても長身の于禁より僅かに背の高い筈の相手は、この所は武張った役目に就くことも多いが、あくまでも己の本領は腕力でないと言い張って錬兵は兎も角個人的な鍛練の場には全く現われない……日頃ならば。
「あれ?伯寧じゃん」
視線を感じたのは于禁だけではなかったらしい。名立たる武人ばかりが集っているのだからそれも当然で、負傷騒ぎに気を取られていなければもっと多くが気付いたろう。
于禁の感じたうそ寒さなど知らぬ気に、爪先立ちの曹洪は肩越しに立ち去る満寵を眺め遣った。鋭いやら鈍いやら知れない。
「ね、なんか凄い勢いで睨んでなかった?」
どこかうきうきと、曹洪は見えなくなった影を目で追い、この場の人だかりを改めて観察した後、最後は于禁に笑いかけた。
「あいつら何かあったのかな?浮気とか破局寸前とか、兎に角尋常じゃないよねっ」
……紛うことなく嬉しそうだ。
「ね、どう思う?」
「……さあ」
おざなりに生返事すれば、ゴシップを前に溌剌とした表情が、不意の翳りを帯びた。珍しい。
「あ、のさ。……文則の噂、俺がバラ撒いたんじゃないから」
「承知しています」
「そっか」
口元だけは変わらぬ笑みを象り、しかし目線を外すのは罪悪感によるものだろうか。于禁が気分を害したと思ったらしい。
――謹厳実直な于将軍は断袖趣味を嫌悪されておる。かつて軽い気持ちで口説いた男は、激怒した将軍に馘られたそうな――
そんな、流布している噂も一面の真実を突いている。曹洪の吹聴したものだとしても腹立ちはしなかったろうが。
「うん、まあ、恋とかしなよ。そしたら陰口も消えると思うし」
そうして、曹洪によって新たな噂が広められるのだろう。
「考えておきます」
反論せず頷けば、あからさまに安堵した顔が見上げてくる。
「うんうん。相手はこの俺サマでも構わないのよー?」
伸びた腕に背中を叩かれる。ついでに軽口も叩いて、曹洪は于禁の傍らを擦り抜けた。
満寵を探して、直接話を聞くつもりなのだろう。子飼いの食客を処刑されて以来満寵を苦手としている……割には、随分と剛毅なことである。
手を振って駆け去る曹洪を一瞥して、ようやく于禁は抜き身の剣を仕舞った。
曹洪に問われた満寵は、無様な己を恥じるだろうか。
「大丈夫だったか」
「あ、文則」
丁度、衛生兵による徐晃の手当ても済んだ所で、声を掛ければ他意のない笑顔が返ってきた。
「済まなかった。怪我の具合は」
「いや、軽く斬っただけだよ。やはり拙者には剣より斧の方が遣い勝手が良い……とは負け惜しみか」
照れたように頬を掻く、その一寸横には真新しい傷口が斜めに走っていた。于禁の視線に気付き、薬のべたつく治療痕を軽くつついてみせる。派手に出血していた割には、言う通り大した傷ではなかったらしい。心配して囲んでいた他の将達の表情からもそれが知れる。
「それにしても、剣を握らせたら文則は強いな。また手合わせお願いしたい」
なんとも屈託ない。陣営内にも愛想のない于禁を敬遠する者が多いというのに、徐晃の人懐こさは『親友』満寵と比較的親しい相手だとの認識によるものだろうか。
「今日の処は怖くて出来ないよ」
于禁はぎこちなく笑った。「大袈裟な」と徐晃は苦笑するが、怖いのは先程の満寵の視線である。自分に向けられたものでなくとも彼程に恐ろしいのに、対象の徐晃は緊迫した一幕に全く気付いていないと解った。
……非の打ち所もなく善良で、これでは首を落とせない。
武人の癖に己に向けられたあの殺意に全く気付かない、その鈍さ自体が徐晃の健全さの顕れで、于禁には満寵の苛立ちがよく理解出来た。幾ら恋人と呼ばれようとも、永劫手に入らぬまま死に奪われるなど、想像するだけでも辛いだろう。そう自分だけの首に語りかける。
ああ、恋なんてしているとも。
徐晃とは比較にもならない酷い人間だった。あの軽薄な口を黙らせてから、ずっと自分は血塗れの首を心に抱いている。蒼褪めた脣に口付ければ酷く苦い恋の味がするのだと、彼等も知っているのだろうか。
于禁は徐晃の笑顔から目を背ける。誰に対しても恥じたりはすまい。
……とはいえ、自分の首も嘗ては笑っていた事実を思い出したくないのだ。