「文若どのは花弁の開く音をお聞きしたことがありますか?」
「いいえ……」
内心うんざりと、表情だけは微笑を貼り付けて荀は小さく首を振る。
飽いた気配が僅かに滲むのをどう解釈したか、うっとりとその容を眺める相手は嘆声を洩らした。
「弾けるような、それでいて幽かな、それは清らかな音がするのだとか」
典籍の引用とは別種の美辞麗句は理解可能な人間に言って欲しい。
放っておけばいつまでも喋り続けていそうな自称風流人への興味を完全に失い、ただ時間が過ぎるのを待った。
……記憶の片隅にも残っていなかった断片が、何故だかこんな時になって突然浮かび上がった。
「主公は……花の開く音を聞かれたことがございますか?」
「ふん、お前にしては随分風雅な問いだな?」
吐息の触れ合う近さで見詰め合う相手は、愉快そうに口元を綻ばせた。
在りし日の荀には何の感銘も齎さなかった言葉にも、詩人である曹操はそれなりに興を感じるらしい。
「実際耳にしたことはないが。蓮の咲く時に、小さな音がするらしい」
「本当ですか?」
「なんだ、話を振った方が知らないのか」
感心する荀の鬢を引っ張り、揶揄する口振りで曹操は笑った。
「次の夏に聴きに行こうか」
「はい……」
他愛もない約束がこんなにも愛しい感情は、きっと自分のものではない。
知らなかった。
「しゅ……」
「話はまた後でな」
軽く囁いて、そのまま吐息を交わす。唇が触れて、
(あ……)
――その瞬間、荀は蓮の華開く音が聞こえたと思った。