親衛隊長の許は簡単に通してくれたというのに、肝心の主は巻物を周囲に散乱させたまま卓に突っ伏していた。無意識に飲み込んでいた息をゆっくりと吐き出す。見れば背中が呼気に併せて僅かに上下していた。曹操は単に眠っているらしい。
 それにしても不用心な、虎痴どのには後で何と言って叱ろうか。荀はそんなことを考えながら、一先ず報告は諦めて自分が袍の上に羽織っていた上着を脱いだ。
「年ですものねぇ……」
 戦の支度に浮き立ちつつも、疲れが蓄まっていたのであろう。無理矢理起こすには忍びない。再び出直すとして、このままでは風邪を引くと居眠りし続ける主に上着を着せ掛けようとした。
 曹操が枕代わりにしているのは帛を広げたもので、墨で山河や城の分布が書かれている。
 何とはなしにそれを目で追いながら、起こしてしまわぬよう極力そっと。気配を殺して膝を折る。
 上着越しに堅い肩に触れたと思う刹那。
 その手を自分より大きい手で捕らえられ、ぐいと力強く引き寄せられた。
「あ」
 不意のことに抵抗も出来ず、荀はそのまま曹操の傍らに膝を折る。それを逃すまいとでもいうように肩に手を回した曹操は、満足気に腹心を抱き寄せる力を強めた。
「誰が年寄りだと?」
 人が居眠りしてるのを良いことに、それがお前の本心か。儂は大いに傷付いた。口調は難詰するものでありながら、荀の顔を覗き込むその表情は悪戯が成功した悪童そのものといったところ。
「…………た、狸寝入りですか」
「くくっ、無闇に人を疑うのは良くないぞ?戦塵に身を置く者は気配に敏感でなければな」
 何を白々しい。
 道理で職務態度の一際厳格な許が、あっさりと中に入れてくれたものだ。取り次いだ側近には何食わぬ顔で許可を与え、善良な彼が扉を閉めた途端にその場に突っ伏して獲物を待っていた、楽しそうな主の姿がありありと目に浮かぶ。
 流石阿瞞とでも言えば良いか(夏侯惇辺りなら確実に口に出していたであろう)、加えて、いい年した男の大人気ない今の行動……状態にまで思いが至り、荀は頬が熱くなる。若い恋人同士のように顔を寄せ合い、まるで懐き合うかのような。
 今更若い乙女の如く赤面する荀を、興味深そうに曹操は観察する。
 その視線を感じれば負けん気に似た腹立ちが込み上げ、態と平静を装って荀は唇を湿らせた。
「…………、忘れておりました。主公は眠っている間に人が近付くと、斬り殺しておしまいになるのでしたね」
 最近になって言い始めたことである。かねてより側近くに伺候してきて、そんな素振りは見たことも聞いたこともない。刺客を牽制する為の虚偽である。しかし実際に側女が数人斬られている。
 彼女達の内に上着を着せ掛けようとして難に遭った者がいたことを思い出して、荀は不意に血が凍る心持ちとなった。
「例え熟睡していようと、近付いたのが愛する者なら反応せんに決まっとろう。まさか、文若に刃を向けることだけは有り得ないな!」
 嘘だ。なら寵愛を受けていた側女達は何だったのか。
 『寝惚けて』行った惨劇には愛の多寡でなく、もっと冷ややかに徹した判断が彼我の命運を篩にかけて。


 嘘吐き。


 警鐘の強さで響いた一言が、ぐるぐると頭を駆け巡って頭痛がした。
「それは光栄ですね」
 巧く微笑めたか不安に思ったが、曹操は機嫌良さそうに――演じて?――笑みを溢していて、荀は更に暗澹たる気分に陥った。互いに良い年をして何だと苦言を呈する気も失せる。
 口で諭す代わり、正面の肩に手を付いて引き離すと、曹操は愉快気な表情のまま眉だけを僅かに動かした。それを確認した荀は、話題を逸らすついでに餌を仕掛けてみる。
「荊州攻めでしたら、別動隊を仕立てて間道から急襲するのは如何でしょうか」
「指揮官は儂だろうな?」
「主公のお得意でしょう?」
 挑発する調子で断じれば途端、曹操の眼光が炯々と力を宿した。餌の食い付きは上々らしい。荊州地図を覗き見ていたことは狸寝入りの内にも承知だろうに細めた眼はきつく、真意を窺うように見詰められても今更というものだろう。
 先程のようなべたべたとした触れ方には作為を感じた。子供っぽいままごと染みた睦み合いは肌を重ねるようになった当初には存在したが、長いと言い切ってしまえる顔突き合せてきた歳月からすれば、ほんの一時期のことに過ぎなかった。
「劉表の戦意は低いでしょうし、備えの固まらぬ内に一戦して叩けば、長期戦にはならぬかと存じます」
「新野相手に大軍は要らんか」
「御意。万一籠城されて挟撃を受ければ、却って足手纏いでしょう」
 甘える手管の得手でない荀の性格も原因だったが、陳宮の去った後は互いの間に生じた歪みを見て見ぬ振りして――そう、今し方のように何処となく空々しい芝居のような。
「ふん、別に本隊が控えておれば、襄陽も下手には動けん…か」
 鼻でせせら嗤う風なのは、却って機嫌の良くなった証拠だった。斬り付ける鋭さの方がずっと曹操らしい。
「お前が戦の策を練るのは珍しいな」
「昔は献じていたではありませんか」
 義務で愛し合っていたのではないとお互い知ってはいたのに、自然に視線を合わせて笑い合えたのは三年に満たない。
「違いない。かつては人もおらなんだしな」
 それでも郭嘉が君寵を受けるようになった後は、無理に親しみを示さずとも曹操は荀を重んじていることを表せたし、荀は……どうだったろうか。
「人が増えればお役御免ですか」
「滅相もない。文若以上に不可欠の人材もそうはおらんぞ?」
 ぎくりとしたように顔色を変えて。解っているという風に笑めば、途端に安堵した風情。この種の憎めなさが曹操の美質だとは誰かが言っていたような。
「しかしそうだな、その案悪くない……一度軍議に諮ってみるか」
 或いは、全てが以前に戻っただけとでも言うのだろうか。
「主公さえ宜しければ発言は厭いませんが」
 ――何も無かったことには出来ないだろうに。
「早々に文若の献策となれば他の者が萎縮する。同種の案が出ないようなら終盤に提案してくれ」
「御意……」
 脳裏に戦陣を描く鋭い曹操の眼光が、荀は本当に好きだった。  (なら今は?) 
 戦に命を賭ける訳でない自分が人命を左右する策を巡らすのは烏滸がましいことと、気後れを感じていたのは昔のことだった。自分の主戦場が宮中という狐狸の棲家であることも確かだが、戦塵に身を置かずとも主の眼差しという白刃に身を晒す以上は条件も同じだろう。
 甘えて、いたのだろうか。
 
 
 
 ……耐えていたと思った。
 藻掻き続けてきたと思っていた。
 来し方を振り返り、己が不幸であったことなど一度もなかったことを知る。
 この時世に命の危機どころか飢える心配すら、そしてどんな時にも愛してくれる人がいた。今更気付いても遅すぎる。
 堪らないのは、今現在も――主観的にすら――幸福に微塵の揺らぎすらないことだ。
 目を開いてしまえば逸らすことなど出来ようか。賢い妻に可愛い子供達。主君の覚えめでたく部下にも恵まれ、臣として栄誉に彩られた地位。
 曇り無き全くの幸福!
   彼  の不在すら自分の人生に決定的な重みを持ち得ない、そのことが辛い。
 漠然とした不幸感から逃れる為に帳は幾重にも張り巡らされ、ふわりと頼りなく、しかし気付けば堅固な砦を築いていた。
 目隠しして生きていけるものならば。しかし帳の有無すら実際の所は関係がない。
 
 
 
「――どうした?急に黙り込んで」
「え……は、申し訳ございません」
 曹操が顔を覗き込んできたことに、荀は驚いた。
 腕の長さ分だけ距離を取ったとはいえ、肩に回された手は外されぬまま。他人同士が共有するには近すぎる距離を保っている。
「もしや具合が悪いのか?」
 それともこの距離を居心地悪いと思っているのは自分だけで
「身体には気を付けろよ、年なんだから」
 ニヤリと、してやったりといった笑みが至近で。
「……もう!」
 拳を振り上げる真似をすれば、笑いながら離れていく。
「主公よりは若うございますよ!」
「そうだな、じゃあこれは返してやらん」
 荀が売り言葉を買ってくるのを待っていた訳ではないだろうが、肩に掛けられていた上着を巻き込むように曹操は握り締めた。
「荊州の秋は温かいだろうが何せ儂は年だからな。陣中に持ち込んで毎晩羽織って眠ることにしよう」
「……もっと温かい着物もございましょう」
「令君香の染み付いた衣など家宝にするのも惜しいわ。墓の下まで持って行く」
 どきりと、胸が高鳴った。
 南方に向かえば生きて帰れないと言っていた  彼  は、正反対の北へ向かったというのに還って来なかった。
 主から向けられた笑みが嬉しいのか、或いは今此処にいるのが……否、眼前の幸福を差し出したとて死者が戻る筈もない。過ぎ去った疾うの昔、僅かな瑕疵を口実にして。このままでは間違ったことを願いそうで堪らない。
「ご無事で…………お帰り下さい」
「おいおい早とちりするな、そんな意味ではないぞ?」
 心配されることが満更でもなさそうな表情。曹操は労りに聞こえる懸念を笑い飛ばすが、荀は唇を噛み締めて俯いた。
「お疲れなのでしたら、後で出直しましょう。虎痴どのには私から伝えておきますから、主公は暫しお休み下さい」
「おい?」
 不自然に思われたであろうが、早口に取り繕いながら立ち上がった。既に手を離していてくれて助かった、振り解くのは本意ではないから。引き止める困惑に気付かぬ振りで、最低限の礼だけは整えて退出する。
 扉の外の許に曹操が休憩を取る旨伝え、再度の伺候を約せば。
「それはいいですけど、令君こそお顔の色が……」
 怪訝そうな中にも心配気に、愛想悪からずとも職務中の無駄口少ない巨漢が、わざわざ身を屈めて訊ねてくる。
「大丈夫ですよ、有り難う」
 もしや主が何か悪さでも、と気を揉んでいることは伝わるが、罪悪感を感じつつも無碍に話を打ち切り、荀は逃げるように立ち去った。
 みっともなく裾を乱して走り出すことこそしなかったが、日頃は凛と背筋を伸ばして歩む荀令君ともあろう者が、乱れた歩調で前屈みと見苦しい様。第三者の目を意識する気力が極端に失われていた。
 手で口を押さえる。辛うじて回廊に膝を付く醜態は晒さない。
 溢れ出し今にも零れ落ちそうな塊に蓋をした。逃がさない為に。
 荀は目を閉じる。そうしなければ泣いてしまいそうだった。
 全てはこの手の内に収まったままなのだ。
 
 
 夢のような幸福だと、その感慨は決して間違ってなどいないのに。
 
 
 
 
 
 
駄文の間に戻る