……それは確か、子桓様を待つ間二人になる機会があった、その時の事だった。
勿体なくも太子四友と並び称される身。普段から太子を交えた席や、或いは二人きりで話すことも多かったのだが、生憎その時は公私ともに気の利いた話題を持っていなかった。その所為だと思う。
その日は子桓様が、経書の解釈について意見を聞きたいと急に我々を呼び出された。なのに呼ばれた室を訪れれば、着替えが決まらないとの言上で延々小半時待たされる羽目に陥ったのだった。
主家の一族が感情に任せて気紛れを起こすのはよくある事だったので特に奇異とは感じなかったが、太子はその中では克己心の強い方だと認識していたので、やはり少量の違和感は存在し。
何故か話を聞き付け聴講と称してやって来ていた子揚どのが、普段より幾分高目の声で「仲達どのが迎えに来てくれるのを待ってるんじゃないですか?」などと意味不明の事を言って散々仲達どのに絡み、待ち草臥れて仕事へ戻って行った後は余計にその場の空気が気詰まりなものになっていた。
私は上の空で竹簡を流し読み、仲達どのは開かない扉から凝と目を離さない。
改めて考えれば、その空間には当初から気まずい空気が漂っていたのだった。
「……そういえば」
二人揃って黙りを決め込む空気の重さに耐えかねたか、仲達どのが漸う口を開いた。
「子揚どのの事ですが」
仲達どのは言い難そうに口籠もった。言うべき内容は迷い無く口にし、口を噤む時はおくびにも出さない人だと思っていたので、その様子は非常に奇異と感じる。
場を繋ごうと試行錯誤するのは大概私の役目だったので、余計に不審だったのかもしれない。先程退出した子揚どのの話をしたのは、その時は何気なく聞き流していても絡まれた内容が気に掛かっていたものか。
「あの方……令君の声色を真似てませんか?」
「それは……」
あからさまに後悔している仲達どのから、慌てて目を逸らす。
「……確かに若干潁川訛りがあるような。揚州の名門にしては不自然……ええ、意識して真似てられるのかもしれませんね」
実情は必死だったが、なるべく軽く聞こえるように、それこそ意識した。
子揚どのが誰かを思い出させる件については私も常々思っていたことで、ただ対象は違う。
軽薄な物言いが思い出させるのは別の顔で、態と逆鱗を掠めて相手の反応を窺っている様子なのもよく似ていると感じていた。
何故令君の名が出るのか正直意外で……そういえば仲達どのはあいつを直接には知らないのか。
確か当時は、あいつが亡き戯志才どのの後任として招聘されたらしき事情を思い出して、彼を奉孝の後釜と見る向きも存在した。私は鼻で笑ったものだったが、……あいつを知らない人からすれば、子揚どのの喋り方は令君に似ているのか。
それは裏を返せば令君とあれの話し方が似ているということか……?
そこまで考えて気分が悪くなったので、自問自答を打ち切った。
己の思考に浸り過ぎて、つい仲達どのを無視し続けていたことに気付いて、慌てて顔を向ける。と、向こうも何事か黙考していたらしく、私の視線に気付くと軽く狼狽したように視線を彷徨わせた。
「どうも……そのような部分ではなくて、声音というか……高さや抑揚が……ああ、訛りなのですね、確かに」
無理に納得した風なのはこちらと同じで、最後に諦めたように溜息を吐いたのが耳についた。
私達は他人、特に子桓様の気の置けない芸術家仲間達などからは堅物の似た者同士と思われていて、なのに仲達どのが何故か私を苦手にしているのに気付いていたから、この時も何とか彼との距離を詰めようとするべきだった。
しかし。
「仲達どの……」
この場合最初に拒絶したのは私の方だった事に、気付いてしまっていた。
「いや、詰まらないことをお聞きしました」
「いえ」
結局、互いに取り繕った笑みを交わす。己の不甲斐なさに軽い自己嫌悪を感じながら、……端然と座し、再び扉を眺め始めた彼が、令君の事をどれだけ心に掛けているのか。
ふと引っ掛かった疑問が、……後々まで尾を曳くとは露程にも思わなかった。