「これは張御史」
 ばったりと出会した時、張紘は正直しまったと思った。
 
 慮外の長居をしてしまったが、元よりこの地に骨を埋める気など毛頭無い。朝廷からの正式な任命である以上裏門から逐電するのとは話が違うが、それでも個人的に言葉を交わす機会は永劫無かろうと思っていた、というのに。
「令君にはご機嫌うるわしゅう……」
「ふふ……お手並みは拝聴致しました。流石は東呉の二張と呼ばれたお方ですね」
 挨拶を半ばで遮って、荀は可笑しそうに喉を鳴らした。この曹操の側近は張紘が言を弄して孫権の有利に立ち回ったことなど承知しているのであろう。少々の口惜しさと、失せない余裕が声音からは感じられた。
 亡兄の跡を継いだ弱冠の孫権を、討虜将軍に任じ会稽太守として恩を売るよう曹操に進言したのは間違いなく張紘である。
 それとも、現在孫権が背いた李術を攻めている口実に、厳象の仇討ちを銘打っていることを当て擦っているか。李術が厳象を討ったのは亡き孫策の命であり、その敵を後継の孫権が討とうというのは厳象を中央に推挙した元上官の荀にしてみれば片腹痛しというものだろう。
 曹操への媚に満ちた孫権の口上も、会稽太守への任命を安易にしようとした張紘の入れ知恵か、或いは東呉の安泰を考えた張昭の策かと問う意味で、二張の言葉に強調を置いたと思われた。
 さて、どう応えたものか。下手に言質を取られるのは身の破滅に繋がるが、嵩に掛かられるのは今後の外交上望ましくない。
「いえ。この程度の始末、令君の手腕には到底敵いませぬ」
 暗に認め、尚且つ当て擦りを返すことにする。
 孫策の不自然な急死は時期的にも、曹操の息が掛かっていると見て間違いない。荀が関わっているのか知らないが、どうせ覚えのない話ではないだろうとカマを掛けた。主を殺された恨みは、同輩を悼むそれより深かろう。
「ご謙遜を申されますな。此度は知遇を得られましたこと、都人士は皆喜んでおりましたのに」
 張紘の告発には肯定も否定も示さず、荀は端然としている。ならば策の出所も知れようもの。いや、複数形を使うということは主犯は別か。
 嘗て荀の叔父にあたる荀爽が張紘を招聘したことがあったが、当時の中央の状況はどうにも焦臭く、郷里に籠もったまま誘いを無視した。それが田舎者の孫一族には忠誠を尽くすのかと皮肉気な。流石徐州の田舎儒者とでも言いたいか。
「明公には賢臣の侍るもの、私などの目からすれば眩いばかりの世界でした」
 穢れた宦官の婿ならば宦官の孫にも尻尾を振れようが、清流の自覚有る自分には耐えられぬ。
 似合いの主従と当て擦れば僅かに眉を吊り上げたが、目に動揺と映る前に荀は柔和な空気を纏い直した。
 とはいえ、ちらと寄越した流し目には鋭い冷気が見え隠れする。殺気とも色気とも判別つかぬ一瞥に震えが来るのを、此方も必死の柔和で誤魔化すのに苦労した。
「とはいえ折角のご縁、……彼方へお便りしてもよろしゅうございましょうか」
 形ばかりは愛想良く、荀は提案する。例え敵陣にあっても親しく書信を遣り取りするのが常なれば、不自然な言葉ではない。
 しかしこれは罠であるし、荀とて罠と見抜かれるを承知で、張紘がどう切り抜けるか試している。
 此処で諾と答えるのは、曹操からの遣いとして赴く東呉から永く帰還する意思無しと認めたようなもの。荀の気紛れ如何で今まで許都で策動した工作を告発され、栄誉の使者一転手枷の身となるだろう。
 かといって否と答えては、友誼を損う所業と世間からの後ろ指を受けることは疑いない。
 一時の非難を交わす為にすぐ帰る故とでも口にすれば、結局背信の誹りが待っている。
 また、実際書信が送られてきたとして、それが孫権との君臣の仲を引き裂く罠でない保証はない。
 何を答えても喉元を押さえられることには変わりない。
 緊張故の動悸に、張紘は何気ない仕草を装い胸を押さえた。
 無造作に罠を仕掛けた荀は、見た目ばかりは人畜無害の優雅さで返答を待っている。
「……勿体ないお言葉、郷里の者も栄誉に思いましょう」
 結局、直接の答えからは逃げるしかなかった。
 張紘は徐州の出。曹操の徐州大虐殺を深く怨む郷里の民は、孫家を撰んだ自分を必ずや褒めてくれるであろう。
「大袈裟な。同じ漢の民には違いないでしょうに」
 敵の弱味を握り損ねた荀は苦笑する。その徐州も今や曹操の領土であるというのに、はぐれ者は張紘の方だろうに、と。
 それで興味を無くしたか、やっと解放する気になったらしかった。最初から書信の件を持ち出そうと待ち構えていたのではないかと、張紘は思う。
「それでは道中お健やかで。再びお目見え出来るのを楽しみに致しますよ」
(訳:孫策の二の舞にならぬよう暗殺には気を付けろ。近い内に江東の地を占領して、足下に引きずり出してやるからな)
「こちらこそ、お時間頂けましたら是非に国事についてのご意見など拝聴したいものです」
(訳:逆に、孫権が中原に討って出て曹賊を滅ぼす日を楽しみに待つがいい。その時は周の武王が殷の箕子に殷の滅んだ理由を諮問したように、私も曹賊の破れた理由を筆頭参謀のお前に尋ねてやる)
 張紘の籠めた意図は正確に伝わったようだった。初めて動揺した気配がぴくりと痙攣した肩から伝わる。
 ここで言い返すとまでは思わなかったのだろう、荀は軽く目を見開いて。
 次いで口角を嗤いの象に吊り上げた。
 
 何と禍々しい。
 
「――気骨のある方は好きですよ」
 荀は微笑む。口調は静かでありながら、今までの言葉よりも余程張紘を戦慄させた。
 互いの挑発通り支配者と虜囚という間柄でなければ、二度と相見えることはないだろうと思わせる。その日が来ないことを、不覚にも張紘は天に希ってしまった。
 今の一幕はなかったことのように、荀は優雅な物腰で礼を執ると、しずしずと立ち去る。裾裁きに至るまで、最後まで非の打ち所なく完璧だった。
 張紘に一矢報いたことなど、既にどうでも良いらしい。それも業腹である。
 相手の挙措すら此方を田舎者よと揶揄する意図に感じられ、周囲に人目がないのを確認してから唇の動きだけで吐き棄てる。
「臭荀!」
(訳:金に釣られて濁流に魂を売った、銅臭くさい荀家の面汚しが!)
 洛陽で勉学した経験のある張紘は、当時の悪評を忘れていない。
 
 
 
 
 
駄文の間に戻る