「と、失礼」
俺も随分丸くなったものだ、というより客将の身ではこのくらい仕方ないか……。
「あ」
肩にぶつかってきて謝りもなく立ち去ろうとしていた無礼者はしかし、曹操の謝罪にぴくりと肩を震わせて立ち竦んだ、ように見えた。
「孟徳様……」
伏せられていた顔が上げられる。
相手を認めて大きく見開かれた眼、漆黒の瞳が曹操の姿を映して紫がかった不思議な色彩を帯びた。
玉細工のように臈長けた佳容には――覚えがある。
「荀、文若……どの?」
「はい……」
名を呼ばれ、羞じらったように荀は微笑む。
それがあまりにも幸せそうな表情に見えたので、曹操は口に出しかけた涙の理由を問うことが出来なかった。
「少しお話でも」と誘われたので、県城の一室にでも通されるのかと思ったのだが、慣れた足取りに続いて向かった車宿には、瀟洒な衣車が既に待機している。促されるまま同乗すれば市街の一角、それなりに立派な門構えの屋敷に辿り着き、馬車は止まった。
「立派なお宅だが……」
「元は富家の邸宅だったそうです。袁公……本初様が仮住まいの私共の為に用意して下さいました」
「そうか、城外での野営暮らしな俺には随分と羨ましい話だ」
戯けて言えば、困ったように微笑む。客間として使用しているのであろう一室、門構えから想像した程に広い邸宅ではないらしく、姿を見せぬまでも住まう人の気配が何処かしら漣のように空気を乱している。
庭に目を転じた振りで様子を窺えば、従僕に酒の支度を言い付けて下がらせる荀の指示は迷いなく、主として振る舞い慣れていることが見て取れた。かつて見た、此処より広大な荀家の邸宅で身を縮めていた少年の姿を連想しにくい。
弱々しい日陰の花のようだと、当時は思っていたのだったか。
「それにしても、文若どのが河内にいるとは知らなかったな。何時から本初に仕えていた?」
「いえ……仕官なら四兄が。私はただ、一族と共に戦乱を避け、ここに身を寄せているだけです」
「ああ、そうなのか」
肯いはしたが、少しく見聞しただけの曹操にも解った。客人に対する扱いという以上に袁紹は荀を厚遇している。配下に遜る上官が滅多に存在しないのと同じく、鷹揚なお坊ちゃんは放っておいても人が集まってくる環境が当然だと思っている節があって、自らが下手に出てまで仕官を促したりしそうにないだろうに。
その恩寵を喜ぶ気色もなく、やや眉を顰め、泣き顔にも似た苦笑。
「ならば今まで顔を合わせなかったのも当然か」
複雑な事情がありそうだが、他人の揉め事に首を突っ込みたくない。態と軽く受け流せば、意を察したらしき荀は陰の気配を漂わせつつも、ちらりと皓い歯を見せて微笑った。
庭には、目にも鮮やかな春の花。
日陰の花とはよくも思ったもの。植わる苑は変われども、明るい室の中で人物だけが影絵のようだ。
……その笑みが逆に、理由の知れない苛立たしさを掻き立てた。
「私は孟徳様がいらしていることを存じていましたが」
話題を切り替えがてら、荀は此方に話を振ってきた。
「ん?」
「反董卓連合でのご活躍は、聞き及んでおります」
だん。
……それ以上の言葉を遮るが如く乱暴に、紫檀の卓に拳を落とす。
「徐栄軍に散々に打ち据えられ、陳元悌どの周大明どのに恵んで貰った兵には逃げられた活躍か?」
痛いところを突かれた報復のつもりか?話を逸らすにしても、
「どうせならもっとマシな嘘を吐け」
曹操は唇の端を歪め、先日来の憤懣を自虐の形で吐き出した。得体の知れない苛立ちを乗せ、言葉は必要以上に刺々しさを得る。
「酸棗の連中は俺の居ない間に馬鹿のような潰し合い。今の俺は本初のお情けで生かして貰ってる飼い犬さ」
弱音のような非難のような。袁紹の前では勿論、部下達の前でもここまで明け透けには言わない。どうせ軍には関りのない、通りすがりの第三者相手と思えば、愚痴を吐くのに遠慮は要らぬ。
「そうですね」
予想とは違い、そんな曹操の様子に気圧されるでも痛ましげな表情を拵えるでもなく、荀は微笑みを浮かべて頷いた。
どころかその表情が挑戦的ですらあるのに、思わず怒りを忘れて痛快さを覚える。
「ふん、あっさり同意する」
態度ばかりは腹立たしげに、曹操は荀を睨め付けた。
「実際、随分なお立場でしょう」
その視線を一歩も引かず受け止めて、暴言にも似た応え。
気骨のある男は好きだが、嫋やかで儚げですらある体の内にそれがあるとでも。……面白い。
「今は友なればこその遠慮もありましょうが、そのままの状態では、いずれ配下扱いされぬとも」
「今でも充分されておるやもな。あれはそういう奴だ」
嘯けば、否定も肯定もせずに笑う。
「折角作り上げてきたものが脆くも崩壊していく様は、それはもう痛ましいを通り越して腹に据えかねるぞ。連合さえ巧くいっておれば、今頃本初と肩を並べても怪訝しくはなかったものを……」
榮陽の敗戦、必死で掻き集めた兵を失ったことも痛かったが、共に戦略を練った衛茲を喪った穴が大きい。衛茲の死と同時に、彼と自分で作り上げた諸侯の連合すら瓦解したのも皮肉と言えば皮肉。
「確かに、統一を失った州はもうお終い。……逆に好都合なのでは?」
「………何?」
見ればひっそりとした佇まいは変わらず、僅かに首を傾げて荀は此方を見詰めている。
「今後諸侯が目的を一にして団結することなど有り得ず、とすれば必要になるのは己の力」
「それがどうした?」
「割拠していくに当たって、根拠地が必要になります。州人士は配下にお持ちでしょう?」
何でもないことのように、あっさりと言い放った。荀の唇の動きを、まじまじと曹操は凝視する。
「他のどの地域よりも、今の州は外部からの侵入に弱いのでは……」
「俺に……かつての同志から領地を強奪しろとでも?」
「山東諸侯の一であった王公節を殺害なさっておいて、今更それもないでしょうに」
それを出されると、曹操としては絶句するしかない。
「そこまで積極的に出なくとも、董卓、黄巾…他の勢力が幾らでも手を伸ばすでしょうし、対抗して袁公も、賊討伐と言いつつ彼の地に派兵することは必定」
「本初の威を借りて、本初から独立する、ということか」
「はい。董卓健在とはいえ現状では、特に突出した勢力はありません。一度独立すれば、周囲から切り崩していくのは容易でしょう」
荀は頷き、花弁の開くにも似た艶やかな笑みを浮かべた。
不覚にも、見惚れる。
ああ、潜んでいたのはそれか。
「……すいません、つい偉そうな口を」
そこで我に返ったか、荀は狼狽したように袖で口元を押さえた。
「いや……目から鱗が落ちた」
「世間を知らぬ書生の戯言で、知らずむきになってしまいました。どうかお忘れを」
曹操の素直な賛辞を喜ぶでもない。恥じたように顔を伏せれば、長い睫が影を落とした。
「そういえば……頼んだ酒が遅いですね。一体どうしたのでしょうか」
「まあ……もう少し待てば来るだろう」
言外に、更にじっくり語り合いたい旨を滲ませたのだが。
「いいえ、お客様に対し失礼というもの。様子を見て参ります」
断固とした口調で言われれば強いて引き留める訳にもいかず、衣擦れの音が部屋を出ていくのを見送った。
静かな気配。遠くの騒めき。
落ち着いた挙措は相対していても押し付けがましさを感じないのに、居なくなれば室内はがらんとした印象を持つ。知らず引き込まれていたということか。
荀の在らぬ部屋は華やかで明るく、……何故だかあの者には酷く不似合いな気がした。
人の手が加わっている、美しい庭。
高価で品の良い調度。
大きくはないが立派な屋敷。
縫い取りの帷の下がった馬車。
戦乱の最中にある風景には見えない。富家の邸宅というより、貴人の持つ妾宅の如き。
――ああそうか。袁紹の趣味。
古い友人については良く理解しているつもりだった。成る程、気付いてみればあいつらしい。別に訪ねてきたりはしないのだろうが、自分好みに誂えた室に美しいお気に入りを飾って、その想像だけで嬉しくなってしまうのだろう。
昔から袁紹は美しい物に目が無くて、気に入る妓も見目良い女ばかり。
「俺も美人は好きだが、多少質は落ちても床上手な方が良いな……」
ただ美しさを愛でるなら誰しも同じだが、名門出の苦労知らずが培った純粋さは、質の悪いことに美に善を求めてしまう。若い頃は嫋々たる風情の傾城に入れ上げては、偽りの身の上話に同情して金銭を騙し取られたり、別の男と逃げられたり……。
友の為にも、いつか美しく優しい伴侶が現れれば良いと願っていたが、……さて、この花に毒は有るや否や。
戦禍から一時隔離され、美しい物に囲まれた荀は、幸福そうには見えなかった。
「兄上、……」
「客とは誰なのだ?袁公からお借りしているこの邸に、人を軽々しく上げられては……」
「曹孟徳様です。袁公にとってもご友人、……」
途切れ途切れに、穏やかならぬ気配の会話が流れてきた。酒が遅れていた理由か、声は徐々に近付き、鮮明に聞こえる。
俺だったらどうやって、あれを飾り立てよう。
他人の揉め事には関わりたくないと思っていたのは何処へやら、そんなことを夢想した。
とびきり簡素な室がいい。何もない場所に、あれがいて、俺がいて、共に地図を広げて戦略を練ろう。それはとても魅力的な案に思える。
その容姿以上に、表皮の内に潜む知略が欲しい。
あの才は、磨けば光る。ひょっとすると衛茲以上に。
喉から手が出る程……しかし袁紹に頼んでも簡単に譲ってはくれないだろうし、本人を口説くにしても、袁紹の元を離れて俺の処に来いとはとても言えない。その力がない。
「全ては州を手に入れてからか……」
何時の間にか荀の示した指標を規定のものと考えている。自分になら可能だろうと僅かでも見込んでくれるのなら、期待に応えなくては男が廃ろう。
「お待たせ致しました」
手ずから、酒器の一揃いを運び、荀が帰ってきた。
「よし、じゃあ呑もうか」
決めた。
俺が此処から出してやる。
※陳元悌……揚州刺史の陳温
※周大明……丹陽太守の周マ
※王公節……河内太守の王匡
の、コト。姓+字表記。