少なくとも、劉封にとっては吉報だった。
今朝届いたその書信は関平の筆によるもので、荊州を預かる関羽からの事務的な伝達事項が主な内容だったが、何より嬉しいことには関平が使者として近日中に上庸を訪れると認めてあるのだ。
『随分顔を見ていないので、元気でいるか心配です』
真心の籠もった言葉が連ねてある書信を、劉封は孟達にも見せることにした。
正式な通達も別に行なわれている以上、書かれてある内容を共同責任者の孟達に伝えなければならないというのは建前で、本音は見せびらかしたいだけである。
これを読めば、子度だっていつものように「向こうは貴方のことなんて思い出しもしませんよ」「今頃清々してるだろ、馬鹿」といった悪口を言えないだろう。
ぐうの音も出ない孟達の様子を想像して、劉封の顔は笑み崩れる。
「入るぞ」
年は若いが上庸では劉封の方が序列は上である(普段の立場からはとてもそうは思えないが)。 大した遠慮もなく、劉封は軽く声を掛けると孟達の執務室へと足を踏み入れた。
「!?」
相手は何故か、慌てて卓上を整理……というより散らかしている。
「これはこれは、仮子どのが何の用です?」
気を取り直したらしき孟達は、普段より勿体ぶった様子で立ち上がると、歩み寄った劉封を値踏みするように一瞥した。間違ってはいないが非道い嫌味を言う。
「……もういい」
相変わらずの態度に気を削がれる。しかも、広げられた公文書の下に重なって私信らしき帛が垣間見え、益々劉封は嫌な気分になった。
「おや、書信ですか?」
なのに、孟達が目聡く劉封の握っている紙束を見付ける。探るような目から隠すように両手で抱き締めた。
「誰から?」
「……お、お前こそ誰かからの書信を読んでいたんじゃないのか?」
「バレてましたか。成都より遥々来たる、愛しい孝直からの恋文ですよ?」
どうせ法正からの文だとは思ったが、臆面もなく肯定するのが憎らしい。
「それは良かったな」
「はい、何の音沙汰もない誰かさんの大事な人とは違って、こっちは熱々ですから。
……ああ、もしかして?」
皮肉の途中で何か感付く処があったのか、孟達は一瞬表情を消すと、ゆっくり片眉を吊り上げた。
「見せなさい」
それを命令したのは意地悪な笑みを浮かべてだったので、劉封はすぐに最前の表情を忘れた。
「嫌だ」
「此処まで持って来たということは、見せるつもりだったんでしょう?」
「気が変わった」
そうだ、どうせこいつに見せたとしても「用事がないと便りも寄越さない」とか何とか言われるのがオチだった。有頂天だった自分が情けなくて、劉封は泣きたくなる。
「邪魔して悪かった」
せめてこいつの前では涙を見せて堪るか。駆け出したい衝動を抑えて殊更ゆっくりと足を動かす。ぎこちない動作になったが仕方ない。
「待てよ」
……背後から舌打ちが聞こえて、思わず足が竦んだ。
その機を逃さず肩越しに伸ばされた手が、無理矢理文を掴み取る。
「あっ」
折角の書信が破れてしまったら……躊躇いが抵抗を軽いものにし、
「ふん」
そんな斟酌もせず、孟達は遠慮呵責ない勢いでそれを奪い去った。
「し……子度!」
我に返って振り向けば、
「けっ」
ざっと目を通したらしき孟達が背後に紙束を投げ捨てる現場。
「何するんだよっ!」
「馬鹿らしい。襄陽からの無理難題を押し付けるのに、甘い言葉で取り繕ってるだけだろうよ。手管以前の問題だろ、上庸太守の自覚があるなら簡単に絆されてるんじゃねえよ」
敬語を忘れて、どすの効いた声で凄む孟達は非常に恐ろしい。
「そっ……そんなの……」
少しは考えた。最近の関羽は益々増長していて、元から劉封に優しい人ではなかったが、「戦時」と言いつつ寄越してくる要求も容赦のないものになってきている。
それでも優しい言葉を貰えれば嬉しかったのだ。
「ひ…ひど……」
涙を堪える為に息を吸い込んだのに、その方法が判らなくなった。関平はそんな人じゃないと反論したいのに、喉に空気が閊えて蓋をされたような。
視界が暗くなるにつれ、そもそも何に必死だったのか忘れそうになった。
「……この程度で発作起こすなよ」
伸ばされた腕に縋り付いて、我に返れば背を擦る孟達にしがみ付いて泣いている自分がいる。
「人を上官殺しにする気か」
「……悪い」
もう散々だ。恥ずかしさの余り逃げ出そうとした体は、背を撫でていた同じ手とは思えない乱暴な所作で押さえ込まれた。
「痛っ」
引きずり倒され、卓の上に押し付けられる。その拍子に卓の上の書類がばさばさと音を立てて床に滑り落ちて。
「あ……」
その中に法正からの『恋文』を見て、劉封は咄嗟に手を伸ばそうとした……投げ捨てられた書信の代わりに。
「余所見とは感心しないな」
その手も拘束され、視線ごと全てを奪う唇が降りて来る。
相手の狼藉の意図すら解らぬまま、劉封は反射的に目を閉じた。
――抵抗を止めた贄を思うまま貪りながら、孟達は横目で床に視線を走らせた。
劉封が気にしていた様子の帛が、案の定他の巻物と絡み合うように転がっている。
最前まで孟達が読んでいたそれは、説明したような法正からの文でなく、――その法正が病に倒れたという家人からの知らせだった。届くまでの日数を考慮に入れれば、悪友が既に土の下に入っている可能性すらある。
頭の一角を占めた思考の所為で加減を忘れた。執拗な接吻を苦しんで、絡めて押し付けた指が酷く藻掻くのを感じる。この時ばかりは相手に余裕が無くなるのを知っているから、熱くなる身体とは別に、情事は孟達にとって心を休める手段でもあった。
法正の病を劉封に知らせるつもりはない。いずれ完全にくたばれば、正式な報が届くのだろうが。
下手な慰めを言われれば怒りで殺してしまうかもしれないし、そもそも自分と法正の関係が子供染みた甘ったるいものでないと明かす気も一生なかった。
「使者どのが到着するまでに消えるかな?」
開けた襟元から鎖骨に歯を立て、痕を付ける。
裾から衣の内に手を差し入れつつ嬲るように耳元で囁いてやれば、死にかけた魚のように痙攣した。
「かん…兄は、…そんなトコ見ない…っ」
熱い吐息と共に吐き出された言葉を聞き、……密かに孟達は歓喜する。