水は轟々と低く唸る。風は渺々と啜り哭く。
蒼月は決して行先を示すことなく、闇に潜んだ怪物は夜明けの顎に全てを呑み込む準備を始めている。
その全ては錯覚なのかもしれなかったが、恐怖に萎えようとする足の傍らを切り裂くような冷気がひと撫でしていくのは少なくとも現実で、陳宮は女を睨む眼力を弱める積もりはなかった。
容赦のない冷気が、血を凍らせ気力を奪おうとしており、凍て付く北風を防ぐ筈の堅牢な城壁は今や水捌けを悪くさせるのみで、注がれた濁流に対してまるで無力だった。茶色く濁った水は底無し沼のように忌まわしく、肌に触れれば身を切る痛みを呼ぶ。
……陳宮には、この惨状が自分によって齎されたことを直視する勇気がない。
「――今直ぐ」
突き付けられた、冷えた剣先と男の声音。
眉一つ分の動揺も見せず、代わりに女は肩を竦める。
「吾を殺めるおつもりなのかしら」
「場合によっては」
強張った表情を崩さず陳宮は肯った。ぴたりと伸ばした腕には寸分の揺らぎもなく、現在の行為が迷い無いものであることを可視下にて顕している。
「主の妻に刃を向ける度胸は買いますわ」
「呂公の室は厳夫人であってお前ではないだろう」
「名目など知りません。あの方に一番愛されている女は吾ではなくて?」
だからこそ刃を向ける意味もあろうもの。
相手の尤な言い分を前に、陳宮は鋭く舌打ちした。
渋々剣を下ろしたが殺意までをも収めたのでない証拠、左手に持っていた鞘を床に叩き付けるようにして捨てる。
「それで?」
「今私に殺されたくなければ、この城から出て行け」
「……はッ」
多分に突拍子もない要求を、女は嘲笑うことで拒絶した。
「鼠一匹這い出せないこの城から?」
嘲弄を隠さず身を捩れば、歩揺がぶつかり合い澄んだ音を立てる。重たげな飾りで折れてしまいそうな首は細く、その笄を抜いて襲い掛かかることを警戒する陳宮は、相手と乱世を知りながら己の腕力に自信ない文官だった。
「屈強な兵士、いえ最強の武人すら破れない包囲を、か弱い女の身で?」
長い籠城で満足な食物を口にしていない筈ながら、一向に陰りの見えない女の美貌を陳宮は凶々しいと感じる。
「そうだ。お前が戦に関わりなき女だからこそ、曹軍も保護するに吝かでなかろう」
「女だから…、と」
くすり、と嗤う。非戦闘員たる女人たらずとも、既に脱走者は後を絶たない状況。隠しても隠しきれるものではない。
「女だからこそ、早々表に出ることが如何に危険か……承知の上でそれを言う。
総大将の元に連れられる前に雑兵共に散々嬲り物にされる位なら、此処で新たな支配者を待つ方が吾にとっては得ですわ」
自明の理の如く言われ、抑えた筈の私怨が傷口から吹き出すのを感じる。
余りにも可哀想ではないか。我が主人が。
「ならば死ね」
この女を護る為、呂布は城を捨てられないというのに。
「そんなことをすれば斬られるでしょうに?」
試すように流し目を送った貂蝉は、陳宮の無言という拒絶を受けて。
「そう」
呆れたと言わんばかりに首を振った。
「策士としては、余りに最低ではなくて?」
「少しでも身軽になれば、それだけ逃げやすい」
絞り出す声音で陳宮は呻く。呂布子飼いの騎馬兵は、呂布軍が壊滅しつつある今尚も中原で最強の軍団であるのだった。その剽悍な強兵が、良馬が、狭い城壁の中で閉じ込められている事態こそが、全ての原因だった。
長期に渡る包囲の果ての水攻めは、食料や飲料の問題以上に、何よりも城内の戦意を喪失させた。
ひたひたと泥濘に足を取られ、最早全てが手遅れに近付きつつある。
……一州にまたがる行政機構を整えた。
在地の豪族から兵糧と部曲を徴発し、ただの農民でしかない弱兵を厳しく訓練して、まがりなりにも統率の取れた歩兵隊を組織した。
順良な豪族の一部に行政を手伝わせる代わりに権益を与え、逆らう一族は見せしめと歩兵の実戦成果を測る為、根絶やしにするまで攻め滅ぼした。
領境を接する袁術と、図に乗られない程度の自己主張を行いながらも誼を通ずるべく工作を行なった。
馬を駆る以外の全てを、陳宮は必死で行なった。
それによってしか陳宮が呂布軍で認められる可能性はなかったし、そうして居場所を作るしかなかった。
主力を成す、呂布を旗頭に敵中の喉元を食い破る強力な騎兵と、主力に連動し、援護と掃討を担当する歩兵。
陳宮の目指した有機的な軍組織の構想は曹操の天才をして呆気なく破綻し、夢が覚めた後に残されたのは士気の上がらない餓えた弱兵と、万策尽き果てた無用の謀士でしかなかった。
この最低の檻から解き放たれれば、彼らは馬を駆って何処へなりとも行ける筈。
ここまで事態を追い詰めたのは、裏切り者の陳登親子を排除出来なかったというだけでなく、敗色を感じながらも本拠に固執していた陳宮の責任も、大きい。
犬の仔一匹通さない完全包囲の中では、呂布の新たな受入先を求めて交渉することすら、陳宮には出来そうもなかった。
何が謀士だ、全き役立たずめ!
悍馬を繋ぎ止める全ての鎖を断ち切って野に放つ位のことしか、思い浮かばない程に。
実際のところは。
振り上げようとした手は、途中で動きを止められた。
陳宮自身の本意ではない。
「何をやってるんです」
刃物を振り回す狼藉者を背後から取り押さえるようにして、呆れた風を隠さない張遼は腰の剣を抜きもせず、どこか呑気な溜息を吐いた。
「慣れないものを扱って……怪我しますよ」
今の状況で軍の主力の張遼に危害を加える訳にはいかない。咄嗟の逡巡に付け込む形で、剣を握る陳宮の手首を無造作ながら無駄のない動作で掴み、張遼は易々と抵抗を封じている。
あまりに堂々と行なわれた制止に、唖然とする余り唯々諾々従う形になってしまった陳宮が我に返れども、がっちりと掴まれた手は既にびくとも動かせない。
「……あら、文遠さま」
口惜しさに唇を噛んだ陳宮はせめてもと、じたばた四肢を動かす。
握る手を引き離そうとする努力は、しかし何ら効果はなく、
「離せ!」
「はいはい、想像以上に非力ですね」
張遼は陳宮の手首を捻り上げ、もう一方の手で剣を取り上げた後に解放した。
貂蝉を庇うように陳宮の正面に回り、剣を遠くに放り投げる。
がらんと、硬い音が陳宮を嘲笑うように響いた。
「助かりましたわ、文遠さま」
隔てられた視界から甘い声が流れ、
「邪魔をするな!」
血が上った陳宮は、呂布には及ばずとも充分頭一つ分高い長身に掴み掛かった。
「何があったか知りませんが、味方の和を乱すのは止めてください」
襟の袷を掴まれるまま、刃物さえ手放させてしまえば安全と踏んだのか、駄々を捏ねる子供を宥めるような呆れ混じり。
「……知る気も、訊ねる気もない癖に口出しするなッ!!」
でありながら心得た表情で、それが陳宮には酷く癇に障った。
これまで直接陳宮に突っ掛かることのなく、さりとて信頼を置くでない遠巻きを保つ、呂布の子飼いとしての張遼の態度はごく一般的なものだった。今になって出しゃばられる縁も道理もない。
「知る気はないですが、軍師が間違っていることなら判ってます」
「だから何を根拠に!」
自分とは思惟も全てが違う生き物と思っても、苛々するのは止められない。
「和など!今更!!」
それを語る段階はとうに過ぎているのだ。落城は遠くないのだ。呂布が如何に生きて脱出出来るか、その可能性を増やす手段以外は残っていないのに!
「お前は呂公とこの売女と!どちらが大切だと言うつもりか!!」
陳宮は糾弾した。そのつもりだった。
「どちらも」
間髪入れず張遼は断言した。
「なッ……!?」
つい襟首掴んでいた手を離して後退る。
眼を見開いて絶句した陳宮を、憮然と睨んだ張遼の仕草は高順のそれに何処か類似している。初めて知ったが。
「変な誤解をしないで下さい」
その通りあらぬ誤解をしかけていた陳宮は思わず頷く。
と、口を差し挟まずちゃっかり張遼の背後に移動していた貂蝉が、小さく舌打ちするのが視界の端に映った。女の打算に眉を顰めた陳宮を何と見たか、常の張遼らしい焦るような調子で言葉を継ぐ。
「忠義は主のみへ。そうではなく、某が言いたいのは命の重みです」
「命の軽重はあるに決まっておろうよ」
「それは軍師の考えです。某は武人で、戦場では刈り取るように命を奪うからこそ、我々が敵を屠るのは」
その意を言葉に置き換えるのに慣れぬ様子で、それでも切々と語るのに。陳宮はいつしか耳を傾けている。
「仲間……家族を守る為だからです」
微塵の揺らぎもない真摯さだと思えた。
「だから目の前で、一人たりとも死んで欲しくない。そんなのは嫌です、まして仲間が仲間を殺すなんて。だから某の出来る限りで止めます。でなければ何の為に戦っているのです」
そんなもの尋ねるまでもなく、呂布の為に戦っているに決まっているのである。
しかし何故だか、陳宮は訂正する気になれなかった。代わりに確認を取る。
「……私も仲間なのか」
「当然です。兄貴もそう言ってました」
「高順の受け売りか」
「仲間を信じることを教えて貰いました。仲間を守りたいのは某の考えです」
「………恥ずかしい科白だな」
「それは!言わなきゃ気付かないからでしょう!?言わなきゃ解らないことだってあるんです!!」
「貂蝉」
思えば、初めて名前で女を呼びかけた。返事はなく、見れば不貞不貞しく顎でしゃくるようにして、態度だけで続きを促される。
「生きたいか」
「何度言わせる積もりですの。生きる為なら何でもしますわ」
「なら、この男に守って貰え」
「―――は」
手の平を返したような陳宮の言葉に、二人が呆気にとられたのが解る。口中に苦いものが広がるのを、無理矢理に呑み込んで。
「文遠は、その頭の悪そうな喋りを直すのだな。いくら武人とはいえ、何処に出しても恥ずかしくない程度にはしておけ。呂布軍の恥だ」
未だ言いたいことが呑み込めないらしい。ぽかんと口を開いた間抜け面を観察して、情けなくなった陳宮はゆっくり首を振った。
美しいその理想の果敢無さが、陳宮には手に取るように見える。
壊すに忍びなかったというよりも、甘い理想がどう現実と折り合いを付け、或いは克服していくのか興味を覚えた故に、反論しようとは思えなかった。
自分がその涯を見届けることはないように思えたし、彼自身が結論を出すべき問題であった。
生がそれ自体で尊いものか、ただ徒に生き続けることに何の意味があろうか。
そういう陳宮も、呂布には同じことを望んでいる。ただ生き延びて下さるならば、と。
……そこまで自覚して、愕然とした。
張遼に自分の切望を重ねて、救われるように感じている自分は。己が望みの叶う可能性が一片もないと、既に確信しているのだ。
陳宮は初めて己の絶望と相対した。
結局は、どこまで行っても滑稽な人生であるに過ぎない。
恐らく下の一帯は、この先の長い年月を濁流によって痩せた土地と貧困に苦しみ続けることになるだろう。民は、曹操を憎むか。呂布をこそ恨むか。それとも。
直視することは多大な痛みを伴ったが、せめて自分が罵られるなら本望であると。
この時、初めて足掻くことを放棄したかもしれない。