一対の人馬が人目を忍ぶようにして邸宅の門を潜ったのは、既に深更とも言うべき刻限のことであった。
やがて、客間からは僅かな灯りが滲み出す。家人が気を利かせて格子戸を開け放ったが、主自慢の瀟洒な庭園は闇に沈んでいたし、思い詰めた素振りの客は外へ目を転じる余裕がなく見える。逆に庭から屋内を覗く者があれば、思わせぶりな芝居の一幕を切り取ったにも似た光景に、感嘆の声を漏らしたかもしれない。
それは仮定の話で、現実に彼らの密会を妨げる者は存在しておらぬ。夜が変わらず冥々と、そこに蹲っているばかり。
「……それで?」
暫く相手の様子を窺っていたが、出された酒肴に手も付けずだんまりを決め込む客に、このままでは埒が明かないと思った周瑜は自分から水を向けることにした。
「……は、あの、それが……」
元々太史慈は饒舌な質の男ではないが、今宵の落ち着きない様は尋常ではなかった。先程の状態からも、黙然という言葉より、適宜な言葉を探しあぐねて途方に暮れたと表したくなる気配が滲む。
狼狽えながら、太史慈がちらちらと傍らの手函に目を向けたのに、周瑜は気付いた。太史慈が持参してきた物で、しかし何故だか厭う素振りで己から距離を取っている。
「その函絡みの用件でしょう」
半ば確信して周瑜が問えば、あからさまに太史慈は顔色を変えた。
「…………っ」
言い淀む素振りを僅かに見せたが、腹を括ったように息を吸い込む。此処まで来ておいて今更言い渋っても仕方なかろう…と、杯を手にその様子を観察していた周瑜は、この時点では仕事絡みの相談という線を捨てていなかったのだが。
「ほとほと、弱り果てておるのです……っ!」
意を決した太史慈が勢いよく叩頭するに及んで、唖然と目を見開く羽目に陥った。
「先日、北に住む知人から便りが届きまして……」
改めて周瑜が事情を問うと、重い口を開いた太史慈は、ぽつぽつと語り出す。
「しかし、知人の筆によるのは表の封書のみ。文箱と思われた容れ物を開けると……」
口を噤み、一見に如かずと言うことか、恐る恐ると言った手つきで件の品であろう、持参していた手函を差し出した。「失礼」と小さく呟いてそれを受け取った周瑜は、躊躇わずに蓋を開ける。
「ほぅ」
中には書信の類は一切あらず、乾燥した植物の根が一本入っているのみ。摘み上げてみると、函の底に小さく署名のあるのが確認出来た。
「曹操……」
周瑜が小さく呟くと、太史慈は困じ果てていることを隠さず、肩を竦めた。
「全く心当たりがないのです。意味が解らないのが気味悪いし、万が一内通を疑われては泣くに泣けません」
悶々と悩んだ挙げ句対処に困り、
「公瑾どののお知恵を拝借したいと思いまして」
改めて、頭を下げる。苦笑を堪え、周瑜は敢えて厳かな貌で太史慈に向き直った。
「確かに……これは重大事ですね」
重々しく頷けば、太史慈はぎょっとしたように目を見開く。
「この植物は方士などの使う呪い草。特に女が意中の男を招き寄せる際に使用し、受け取った者は己の意志とは無関係に術者の元に引きずり寄せられてしまう……」
「なんと!呪いを免れる方法は…!?」
「残念ながら……」
俯いた周瑜が軽く首を振ると、太史慈は真っ青になった。
「い、今から自宅に籠もります!いや、道士を呼んできて、しかし、なんと……」
すっかり我を失い、落ち着きなく辺りを見回したかと思うと、酒肴を蹴り飛ばさん勢いで立ち上がった。
威風堂々たる偉丈夫が、世に知れた勇将らしからぬ醜態を見せ続けるのは、なかなかの見物であったが。太史慈が、方向の定まらぬまま客室を出ていこうとするに及んで、慌てて周瑜は着物の裾を掴んで引き留めた。
「すみません、冗談です、落ち着いて」
「………え?」
恐る恐る振り返る、その安堵と弱気の渦巻く表情に、思わず失笑する。
「……っ、くくくっ」
「の、呪いではないのですか?」
担がれたことより真偽の方が気になるのか、再び腰を落ち着けた太史慈は、おろおろと尋ねた。
「この植物、名前を『当帰』と言うのです」
硬質な印象を弱める、笑顔の余韻の残る柔和な表情で、周瑜はそれを告げる。太史慈は、眩しいものを眺めた時のように目を細めて、僅かに視線を逸らした。
「当帰(まさにかえるべし)ですか……」
「呪草としての信仰もありますが、曹操としては名の表す意味の方が重要でしょう」
太史慈は江南からは遙か北、青州は東莱郡の生まれである。
「故郷のある華北に帰る、つまり自分の元に仕えないかという暗号ですね」
周瑜が断言すれば、太史慈は得心したように頷いた。
「子義どのは如何するつもりで?」
揶揄う口振りで尋ねたが、元より答えは分かり切っている。
「この地を離れる気など、毛頭ありません」
生真面目な顔で宣言する。疑いなど微塵もないつもりでいたが、それでも周瑜は安堵した。
かつての太史慈が、孫呉政権に膝を折ったのではないことを、知っていた。彼を心服せしめるに足る主君の逝った今、呪草に抗ってまで太史慈を引き留めるものなど、何もないのだ……本来は。
「……それで、この根、一体どうすれば……」
懐古の海に攫われかけた周瑜は、未だ弱気の見え隠れする太史慈の声音に、我に返らされた。
「当帰は血の道の病に効能ある薬草だと、聞いたことがあります。夫人への贈り物にされては如何ですか」
「成る程、そうですな」
「なんなら、密かに想いを寄せる女性に贈ってみますか?ひょっとすると、逢いに来てくれるかもしれませんが」
「とっ、とんでもない!!」
顔を真っ赤にして狼狽する太史慈を見て、周瑜は声を上げて笑った。普段は沈着で表情の見え難い太史慈が、今宵は何かと素直な態度。そういえば、周瑜もこんなに笑ったのは久方ぶりであったような気がする。
「……公瑾どのには、必要ありませんか?」
不意に声の調子を落として、尋ねられた言葉。
「招いたところで、越えれぬ狭間もあるでしょうよ」
明るく告げて、周瑜は完爾と微笑んだ。