『隴を得て……』
 
 
 南鄭の地から眺める南方は、ただ山稜の途切れることなく続く景色であった。
 漢水を越えた対岸にも複雑な陰影を描き出す山肌が重なり、視界を奪う霧の向こう、最後には姿も朧に消えて逝く。果ても知れぬとまで思わせるその先には、天下の穀倉地帯たる蜀の地がある筈である。
 山々の連なりを眺める司馬懿にはその知識があったが、目と鼻の先にある漢中まで来て、初めてそれが信じられなくなった。背後には天険と名高い秦嶺山脈。周囲から隔絶したこの地で、長年に渡って五斗米道が独立を保っていられた理由が肌で実感出来る。
 ここは何処なのか。この先に棲むのは果たして我々と同じ人なのか。中原人の驕りとは思うが、ついそんな心細さにも似た疑いを抱いてしまう。
 益体もない夢想を都の年若い主に話せば、手を拍って「お前らしくない」と笑うだろうか。
 ……勿論、山の向こうにも人が暮らしている。
 その地の支配者と直に顔を合わせた経験はないが、官府で陣中で、微量の侮りと多量の忌々しさを込めて時折口に上る名前……。
 
『劉備』
 
 はっきりと。
 不意に聞こえた幻聴にぎくりとして、司馬懿は顔を上げた。
 冬枯れに少し黒ずんだ、異境の景色。記憶にある場所とは似ても似付かない。
 なのに他の誰でもなく、細く澄んでいながら裡の激しさを秘めた声が、脳裏に甦った。
 その瞬間の戦慄と陶酔。
 
 
 
「仲達どのらしくない」
 此度は現実の声。我に返った司馬懿は、ばつの悪さを誤魔化すように、背後に忍び寄っていた劉曄を睨み付けた。
「何が私らしくないと言うのです」
「ほらその物言い」
 目を細めて唇を笑みの形に象る。貴公子的な劉曄の風貌が、途端に油断ならない気配を纏う。
「そこまで巴蜀に未練があるとは思わなかった。今も遙かを見つめて溜息、まるで恋煩いの若者のようですよ」
 揶揄の口振りに、つい剣呑な視線を向ければ。
「心配しなくたって、私もサボリですから。仲達ちゃんと一緒で、私もここで兵を還すのには反対だったのをお忘れなく」
「ちゃん付けは止めてください」
 司馬懿の渋い表情を何処吹く風とばかりに受け流し、劉曄は当然のように肩を並べる位置で腰を下ろす。今まで立ち呆けていた司馬懿も衣服の汚れには頓着しない質である。合わせてその場にしゃがみ込むと、劉曄は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「反対の割に、貴殿は全く堪えていない様子」
「だって、私はちゃんと進言しましたし。聞き入れなかった丞相が痛い目に遭って後悔しても、自業自得というものでしょう」
 あっけからんと答えた後に、ふと向けた視線が相手の表情を探るそれになる。
「あっちで帰り支度しながら喚いてる武将の皆さんは腕力で、我々文弱の徒は脳漿で。どちらも権力者の手足に過ぎないのを、忘れちゃダメでしょ?」
 耳を傾けながら、司馬懿は意味深な言葉を意味深に述べる底を、半眼で見据える。
「仲達どのはその辺り心得てると思ってましたけど。仕事に熱くなるなんて、ホント珍しい」
 ネタさえ割れていれば、無邪気を装った詮索の前に己を曝したりはしない。
 糊塗する己を心得ている司馬懿には、らしからぬ感傷を冷静に俯瞰出来ていた。
 
 
 
 ――おそらく、新参者による蜀支配が固まらない、この機を逃せば。
 蜀を手に入れるどころか、折角得た漢中の支配もやがては危うくなる。
 拭えない割り切れなさ。
 きっとそれは、あの方の望みが叶う最後の機会だったと、知っているからだろう。
 目の前を紅い、幻の霜葉が翻る。
「……勿体ないと思いましてね」
「まあね」
 司馬懿の返答をどう受け取ったものか、変わらぬ笑みを刷いたまま、劉曄は空を見上げた。
「『既に隴を得て、復た蜀を望む』でしたっけ?私が来た時の丞相はもっとガツガツしてたと思いますけど、何だかんだで奸雄も丸くなっちゃうものですねぇ」
 諫める司馬懿に対し、尤もらしく溜息を吐いた男の姿が甦る。
 気の毒だと思う前に、怒りが込み上げた。
 過去に微笑って許した人とも、現在他人事として評する劉曄とも、己の立つ位置は違う。
「まあ、あんなしんどい行軍をもう一回しろって言われたら私も嫌ですけどねー。
 宴開いたくらいじゃ癒されませんよ。ここから帰るのも嫌だっつーの」
 自身の招いた空気をわざと掻き乱し。よっこらしょ、と年寄りじみた声を出して、若ぶった同年輩の男は腰を上げた。
「邪魔してすいませんでした。どうぞごゆっくりとサボってください」
 皮肉をそうと響かせない声音は、……彼一流のものである。
 
 
 
「子揚どの」
「はい?」
 気品溢れる笑顔で、劉曄は振り返る。
「わざとですか」
「え?」
 きょとんと目を見開く。今日見た中で一番、素に近い表情だと思った。
 やはり自覚もなしに、あの方の声色を真似ていたらしい。
「いえ。……丞相には、しばらくしてから参るとお伝え願います」
「了解」
 立ち去る沓の音は、現実にも意識からも遠離った。
 ……もう少し名残を惜しんでいようと思う。
 最後の忍耐を捨て、ある時から一つの夢を葬り、新しい望みを持つことにした。
 多分、この地はその望みとは関係がない。
「好きにさせて頂きます」
 だが、咽から手が出る程に、漢中――蜀が欲しい。
 その位の感傷は許して貰いたかった。
 
 
 
 つれない方と共に葬った。
 せめてもの、過去の夢への手向けとして。
 
 
 
 
 
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