取り次いた家人の告げたのは、数年前上京した折に親交を深めた相手の名だった。五日前に来訪し彼の御仁直筆の書信を届けた家僕が、今日も供人に顔を列ねているらしい。
であればこそ不義理はなるまいと、一応窶れた風体を繕ってから、徐に堂室へと通したのであるが。
「お久しぶりですね仲達どの。お変わりないようで良かった」
仙境図から抜け出た神女の如き、幽かな微笑を湛えて対座しているのは。
「じゅ、荀令君……?」
みっともなくも、半分腰を浮かせたままの司馬懿はこの場から逃げ出したくなった。
何故だか、来客であった筈の路粹にとっては上司に当たる貴人がいる。
嫋やかな麗姿は司馬懿の記憶に寸分違わず、策略とはいえ身仕度整わぬ己の姿が引き較べれば恥ずかしい。相手が相手と知っていれば、それなりに威儀を整え対座したというのに。
「まさか令君が斯様な陋屋にいらっしゃるとは思いも寄らず、充分なおもてなしの用意もしておりませんが……」
「いいえ、文蔚どののお力を借りて、仲達どのを騙すような真似をしたのはこちらですから。どうぞお気になさらず」
「ですが何故。お名前を隠すようなことを?」
困惑を隠しきれぬまま問えば、感情の読めない微笑を浮かべる荀はうっすら眼だけを細める。
「折角懐かしい人を訪ねるのに、煩わしい肩書の所為で大事にしたくはなくて」
「ご配慮感謝します」
納得せぬまでも、調子を合わせて謝辞を述べた司馬懿を見て。
不意に荀は、可笑しくてならぬという風にその微笑の種類を一変させた。
「――それに。仲達ちゃんのお心は有難いのですが、一臣下の分際で我が主公の名代より丁重なもてなしを受ける訳にもいきませんからね」
くすくすと密やかな笑声。愉悦に満ちた双眸に射竦められた錯覚で、司馬懿は思わず息を呑んだ。
今更ながら正確に、常ならぬ訪問理由を察した。
が、既に手遅れである。
くっきりとした確信の前では、何故今まで必然過ぎる符丁に思い至らなかったのかが理解不能であったが、目を覚ましたと同時刃物を突き付けられたに等しき状況。自覚した途端、背中を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。
「…………ちゃん付けは、出来れば」
「ああ、済みません。実際にお顔を合わせてみれば思ったより元気そうなご様子で、つい安心して。お気を悪くされました?」
「い、いいえ……ただ、その、私も良い年ですので」
表情ばかりは平静を取り繕う司馬懿の、その内心の緊張と狼狽を愛でるように荀は笑みを深めた。
「ご病気と徹底させるなら、友人にも心を許してはなりませんね。人の口に戸は立てられませんから」
「……さて、何のことやら」
完全に露見しているのは疑いないところであったが、あくまでしらを切り通す。荀自身の仄めかすように、明確な言質を取られては文字通り命取りになる。
「ふふ、私は主公の内意を受けておりませんよ」
と、再び態度を一変させた荀は、慰撫するような柔らかい苦笑を宿らせた。
「……ただし、もう時間はないとだけ申しておきましょうか」
薄々は司馬懿も感じていたことであったので、それには素直に頷いた。頷いて後ひやりとしたが、この程度は何ら確証とはならないと思い直す。
この数ヶ月、一度は諦めたかに見えていた曹操からの招聘の使者が、思い付きのように勃然と回数を増し始めている。
「仲達どのの意を慮りもせず、最初に貴方の名前を主公のお耳に入れたのは私ですからね。この仕儀には心苦しく思っているのですけれど」
「いえ、令君の所為ではありません。折角の思し召しに応えられそうにない、私の病が悪いのです」
「限界が近いのですよ」
聞き分けのない子供を見守るような仕草で、小さく首を振って司馬懿の演技を切り捨てる。
「私とて、これまでなら主公をお諫めするところでしたが。無理矢理連れ出さずとも、貴方一人いようがいまいが天下の趨勢に何ら影響はありませんでした」
「今はそうでないと?」
気色ばむ程ではないが、それでも直截に役立たずと判ずるに等しい言葉に司馬懿は不快感を持った。自らが尊敬し、能力を認める荀の言であるから余計にである。
「ええ。来て頂かないと困ります」
刺々しさの混じる疑問に対し、荀は鷹揚に悪意だけを聞き流して同意を返す。
考えてみれば、天下の趨勢に一布衣が直接関係する旨の見識など、ただ異様なだけである。にも関わらず、両者とも自負と眼力とを信じるが故に、自明の理としてそれを話す。
「暫くはお辛いでしょうけれど、病は気からと申しますからね。案外、雨から書を守るように快癒されるかもしれませんよ?」
「――――――――ッッ」
「ご立派な夫人をお持ちですね。羨ましいことです」
「つ、妻が聞けば。喜びましょう…………」
何故。
誰も知らない筈の、まして遠く離れた許都にいた荀の知る筈もないことを。
この数年間で唯一度。司馬懿の犯した油断と失策。
天才と信じる存在を完全に絡め取る為、荀は最大の切り札を提示してみせた。
「そういえば私の娘婿、仲達ちゃんとは同年輩なのですよ?今は都で侍御史の役に就いているのですけれど」
ふと、思いついたという風に荀が話を転換させた。ように見せかけた。
裏にある意を悟って、司馬懿は今度こそ顔色を蒼醒めさせた。
「……………曹公の、意を汲んでのことではないと?本当に?」
「ええ」
完爾と微笑む荀の表情には、一片の悪意も窺うことが出来ない。
であればこそ、司馬懿は命を他者の掌に握られる感覚に、強く恐怖した。
「今なら事を荒立てることなく、望んでの出仕という体裁が繕えます。来て頂ければ、尚書令の名に賭けて決して粗略な扱いは致しません」
脅迫と同時に明示された条件は、そう悪いものでもない。
この辺りが手の打ち所には違いない。恐怖に戦きながらも、傍らの冷静な計算で司馬懿はそう判断する。
荀が握る弱味は広く開示されぬからこそ効力を持つものであり、或いは曹操が権力者の傲慢さのまま理由無く司馬懿を戮する場合にのみ、主の名誉を守る為に使用される類のものである。
このまま仮病を押し通せば、曹操が捕吏を差し向ける可能性も高い程に、中央の状況は切迫しているのに違いない。
そうなれば構わず見殺しにされるが、今の内なら荀の保護下に入ることが出来る。
完全に頭を押さえられることにさえ目を瞑れば、後見無く官界に入るよりも余程に恵まれた立場を得られるだろう。
頭を下げる人物はなるべく少ない方が良いのは自明である。
……そこまで考えを巡らし、司馬懿は腹を括る。
「私などの為、ご厚恩かたじけなく思います」
「それだけ貴方には期待しておりますから」
その場で伏した司馬懿に恐縮するでなく、当然のように荀はその礼を受けた。
頭を上げる機を量っていれば、しかし白い手で床に付いた司馬懿の手を取って、考えるまでもなく促される。細い指の滑らかな感触に、司馬懿は思わず狼狽えた。
外面を取り繕うのは得意であったのに、この人相手には全く通用しない。身分というだけでなく、全く格が違っている。
「流行病で亡くなった侍女の両親、今は河内を離れて行方が解らなくなってしまったそうですよ。世情の安定せぬ世の中、安否が気遣われますね」
「……そうですね」
生死は知らぬが、荀の息の掛かった者が身柄を押さえているのだろう。
万一にも司馬懿が荀に対して不利益を齎そうとすれば、何処よりか現れて「罪」を声高に糾弾するような仕組みになっていると思われる。証言さえ出来るなら、その両親の真偽には大して意味もない。
「力弱き民が安心して暮らせる世を作るのが、我々読書人の家に生まれた者の義務ですよ。お互い頑張りましょうね、仲達どの?」
「はい。宜しくご指導願います、令君」
久々に井の中の蛙が、他者との圧倒的な差を見せ付けられた。
屈辱はあったが、それ以上に闘志に似た興奮も感じている。
いつか追い抜くことも可能なのだろうか、と。
この日、司馬懿に一つの目的が出来た。
荀が脈絡なく見せた、何かを悼むような眼差しを前にして。