「やあ、主は在宅かい?」
「これは軍祭酒様。主人は生憎と沐浴中でございます」
「あ、そう」
 出迎えた顔見知りの家司に軽く頷き、郭嘉は先導を無視してずかずかと好き勝手な道へ踏み込んだ。
 沐浴中であれば客を待たせても非礼に充たらない慣例からすれば、郭嘉の行動の方が非常識に映るだろう。擦れ違う度目礼を寄越す使用人達がちらりと奇異の視線を向けて来るのに気付いていたが、そのまま勝手知ったる他人の家を闊歩する。
 そうして辿り着いた最奥、普通なら決して客人が足を踏み入れない湯殿に、郭嘉は顔を出した。
「お邪魔しまーす☆」
「……奉孝」
 慌てず騒がず、しかし僅かに呆れを滲ませて、沐洗中の荀は無礼な客を出迎えた。白い浴衣一枚で浴槽に身を浸した姿。結わずに垂らした黒髪が、豪奢な飾りのように背中を覆っている。微かな身じろぎが伝わり、澄んだ水音がぱしゃりと跳ねた。
 その傍らに膝を付き、郭嘉には一瞥も呉れずに手元の黒髪に目を落としているのは唐夫人。男性に顔を見られている羞恥もなく、……相手が郭嘉では仕方ないと諦めているか。つるりとした白い顔に無関心を貼り付けている。
「んじゃ、ちょっと遅れちゃいましたけど交代しましょう!」
 それには気も留めぬ振りで、無邪気を装って宣言した。
「………」
「……………」
 較べて荀夫妻の対応は随分と冷ややかなもので、両者とも郭嘉には見向きもせず、互いに相手の出方を待つように見つめ合っている。
「……彼は客ではないし?」
 先に開いたのは荀の方で、妻を上目遣いに見上げると、困惑したように僅かに首を傾けた。
「……はい」
 顔と同じく声音にも表情は顕れない。とはいえ、夫の言質に納得するところがあったのか、かたり、とその場に櫛を置く。
「後はお任せ致します」
 か細い声で確認を取り、しなやかな仕草で立ち上がる。裳の襞を直して、顔を上げた時も、自ら話し掛けた相手の郭嘉に視線すら合わそうとしない徹底ぶりだったが。
 肩の触れ合いそうな距離、擦れ違った一瞬。細い眼が射るように郭嘉を見据えた。
 そのまま、何事もなかったように夫への礼を取ると、唐氏はその場から姿を消す。
「良い奥さんですよねえ」
「ええ、私には勿体ない程、本当によく出来た人です」
 代わりに同じ場を占めて、郭嘉は櫛を拾い上げる。本気の称賛を込めたのが伝わったか、荀は誇らし気に微笑んだ。
 そう、陳羣のようにぎゃんぎゃん大声で吠えかかって来るより、あの類は余程敵に回せば厄介になるだろう。唐氏は自分が荀の大きな弱味になり得ることを自覚していて、だからこそ弱味を握る郭嘉に気を許さないし、敢えて敵対しようともしない。
 侍巾櫛の、妻の鑑と言えるか。
「俺って、悪人ぽく見えます?」
「当然でしょう」
 唐突にも聞こえる弱音を、荀はくすくすと笑いながら補強した。
「うちの奥方を口説きたいなら、もう少し真人間になってから出直しなさい」
「旦那さんの方を口説きたい時は?」
「さあ、知りません」
 軽口を交わしながら、郭嘉は濡れた髪に櫛を通した。ひやりとした感触が簡単に手の間を擦り抜ける様は、この人自身が水で構成されているかのようで、手荒に扱えばそのまま形を無くして水に還ってしまいそうな気になる。本当はそんな筈がないと充分承知していながらも、何故か強く抱き締めることは躊躇われて、梳いた髪に軽く触れるに留めた。
 冷水に身を浸す清涼さは、河伯への贄に捧げられた乙女の様でもあって。
「どうしました?」
 慈愛を滲ませた紫瞳が、口数の少なさに不審を感じて背後を仰ぎ見た。郭嘉の頬を辿る濡れた指先も、ひやりと冷たい。
 そんな瞳ではなく、単衣から覗く膚の白さに目を奪われる郭嘉は、それに比して汚れ過ぎているに違いない。
「……ああ、つい今夜の逢瀬が気になって。初めてのヒトなんですよ」
 誤魔化すつもりでにやりと笑えば、きゅっと唇を噛み締め、……瞳に昏い炎が灯った。
 すぐに背を向けた荀はすぐに肩の強張りを解いたが、一瞬の炎を目に灼き付けた郭嘉は、相手が同じ場所に堕ちたモノであることに安堵して、浴槽の縁に掛かった巾に手を伸ばす。我ながら必死で可愛らしい。
「……日の暮れまでは居ますから?ご安心ください」
「そなたなど居ても居なくても構いませんが?」
 心なしか声が尖っている。それでいて平然と、されるがままに体を預けているのだからこの人も複雑だ。水に浸した巾で、ゆっくりと撫でるように拭えば、粗い布越しに仄かに人肌の温かさが郭嘉の手に伝わる。
「そういやおちびちゃん達は元気にしてます?」
 髪を掻き分け首元、なだらかな輪郭に沿って滑り降り、浴衣の袷を緩めれば顕わになった肩。忍び込む陽光を纏った鮮やかな白が目を射る。
「ええ、後で遊んでやってくれます?」
「んー、気が向いたら」
 滑る手は単衣の中、鎖骨から胸元へと。
「大人げない」
「じゃあ子供で」
 言いがてら抱き締めた。後ろから肩の上に顎を乗せ、隣の首に頬を擦り付ける。
「随分と不埒な子供もいたものだこと」
 甘える仕草に託け唇を寄せれば、咎める言葉と共に苦笑する。荀に拒絶の意志がないことを確かめて、肩に口付ける。強く吸い、紅い印を付けた。
「着物が濡れたでしょうに」
 言葉とは裏腹に身を寄せる気配。
「構いやしません」
 その間も郭嘉の右手は巾ごしに荀の体をまさぐり続けて――洗うと言うより愛撫に近い手つきになって――いる。
「あっ……」
 荀の唇から細い吐息が漏れた。もう一方の手で直に胸の飾りを弄りながら、郭嘉の右手は更に深い場所へと伸ばされる。
「ちょっ…、な」
 慌てて押し退けようとする荀の手を
「洗ってるんですよ」
巾を離した手で掴み、持ち上げると甲に接吻する。
「嫌なら昼間から沐浴しなきゃいいでしょう?」
 そう、郭嘉がこの時間帯に訪れると解っていて、毎度日暮れを待たずに入浴しているのだから、これは暗黙の合意なのだ。
 第三者が知れば、そこそこの社会地位のある男が甲斐甲斐しく入浴の世話をするなど、想像も出来ない奇異さだろう。それなら、如何わしい欲望の為、肌に触れたいが故の口実とでも説明した方がまだしも理解しやすかろうし、当事者の荀自身、郭嘉の意図をそう解釈しているかもしれない。
「嫌です……はい、後は自分で洗いますから」
 やんわりと郭嘉の動きを抑し留め、荀は姿勢を正して下半身を洗う為の目の粗い巾を手繰り寄せた。
「子供ではないのだから、全部人に任せる必要はありません」
 澄まして言われると、郭嘉は苦笑しつつ身を離すしかない。
「奥さんにならして貰っちゃうクセにー」
 ……或いは、瀬戸際で拒絶すれば郭嘉が引き下がるのを承知だからこそ、余裕で触らせているのかもしれないが。そう思えば昼間の内に沐浴を済ませてしまう動機も疑わしくなってくる。
「その家内から仕事を取り上げているのは誰ですか」
 完全にずり下がっていた浴衣を、郭嘉の目から肌を隠すが如く着直し、ぴんと衿を整えると慣れた手つきで己の体を洗いにかかる。
「そんなに擦らなくても、全然汚れてないっぽいですよ?」
「主観の問題です」
 それにしても荀の場合は極端だと郭嘉には思えるが。
 脚を伸ばした拍子に、滴る飛沫が水面に軽やかな音を立てる。浴槽の縁にかけた爪先が反り返るのに、郭嘉は夜を思い出して欲情した。
「……やっぱり今日はお泊りしよーかなー……」
 煽った挙げ句余裕で人を安全牌扱いするのが口惜しくて、郭嘉は口に出してみた。
「約束してるんでしょう?」
「嘘です」
 そうでなくても別に惜しくない相手だ。
 折角安心させてやったにも関わらず、薄情な荀は郭嘉を振り返りもせず脚を擦っている。その気を引こうと、濯ぎ用に桶に取り分けて置いていた水を頭から浴びせてやった。
「こら!」
「文若どのが無視るのが悪いんです〜」
 ――下心皆無とまでは言わないが。
 沐浴の時間を狙う真の動機が意中の人の匂い目当てと知れば、荀はこんな風に笑って許してはくれなくなるかもしれない。
「もう……このまま浴槽に沈めますよ」
「あはは」
 傍からは芳香のように感じる己の匂いを、荀自身はそれが悪臭であるかのように恥じていて、誤魔化す為に調香を始めたのだと知っている。世人が令君香と羨む薫りは、水に浸かりでもしない限り落ちないし、この期を逃せば生の匂いを嗅ぐことが出来ない。
「こらこら、離れなさい」
 大体、沐洗すれば体臭が薄まると考えているに違いない荀が迂闊なのである。
 抱き付く振りで、思い切り息を吸い込んだ。
「……好きですよ」
 
 今更、驚いたように体をびくつかせるこの人が、本当に可愛いと思う。
 
 
 
 
 
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