学者という人種は只でさえ浮き世離れしている連中だが、この場に限っては軽薄な華やかさの代わりに温度のない静寂が尊ばれているようだ。
「……そうねェ、この部分の解釈は陳先生のが妥当じゃないかしらね」
 延々続いた議論の最終的な判断を、一番上座を占めている何晏が下す。と、故・陳司空の義弟に充たる荀が沈黙を保ちながらも、僅かに顔を綻ばせるのが視界に入った。
 普段は世を悲観した如き仏頂面ばかり見せている印象があるが、柔らかい表情になれば数々の伝説に彩られた彼の父もこんな風情であったのかと思わせる。
 そう、なんだかんだ言って、構成員の美形率は異様に高い会合であった。
 何の奇跡が起きればあんな顔が出来るのかという類の人間が宮廷にはゴロゴロいたりして、亡き父に似た丸顔の曹羲としては羨む気にもなれない。
 その後も、他の四人の間では熱いのか乾いているのか俄かに判断の付かない議論が交わされ続けたが、この面子の中では一番学識の劣っている自覚のある曹羲は、半ばぼんやりと美形観察を続けていた。
 
 
 
「話を聞いてもいなかったんじゃない?悪い子ね」
 書庫に居る時の何晏は心なしか挙措に落ち着きがある。というより攻撃的ですらある才気が影を潜めていて、どちらが本性なのか興味が湧かないこともない。
「いやあ、散騎常侍中領軍安郷亭侯の身分で完成品に箔を付けられても、作る段階では役立たずですからー」
 苦笑すれば、何晏はそれを鼻で嗤う。
「貴方のお兄さまに比べれば充分頭良いわよ」
「そりゃ比べる相手がアレでは」
「ふふっ」
 他の皆はとっくに散会した後で、何晏は一人残って何やら書物を捲っている。
 なんとなく曹羲も居残っているが、実のところ何晏とは兄を通じた知り合い程度の間柄なので、場を繋ごうとすれば必然的に曹爽の話題にならざるを得ない。
 とはいえ、書庫での何晏を深い繋がりである筈の兄は知らないだろうと考える優越感は、何に起因するものか自身でも把握していないが。
「それでも兄が好きなんですね」
「別に好きじゃないわよ」
 柔らかな女言葉で、さらりと実も蓋もないことを言う。
「兄は貴方のことが好きですよ」
「さァね」
 それにも気のない返事。
「僕の知る限り兄は全くの女好きだったのに、貴方のことは好きみたいです。最近は美童とかも試したみたいで」
「頭悪いものねェ」
 しみじみとした口調で、何晏は嘆声を洩らした。その艶やかな声には愛も嫉妬もそれらしき感情は一片も含まれておらず、この人が栄華を貪るだけの目的で権力に近付いたという陰口も、根も葉もない中傷とは一概に言い切れない。
 兄は学も才も欠けた凡人で、到底話が合うとは思えないし。傀儡にして裏で操る分には都合の良い相手だろうが、逆に言えば何晏の助力がなければ兄もそのお零れで中領軍の地位に居る曹羲も、もっと早い段階で失脚しているだろう。せめて、あの長兄がもう少し分別のある人間なら。
「何がそんなに気になるのかしら?」
 しつこく付き纏う曹羲に読書を諦めたのか表紙を閉じ、ちろりと視線を寄越す。或いは濃度を増す日暮れに文字を追えなくなっただけかもしれないが、相手にすかさず恩を着せられる間の計り方は、この人の才覚の一つだ。
「僕の累卵の如き安泰は、兄と貴方の仲に依存していますから。気になるのも当然でしょう?」
「私がそんなに大きな比重を占めていると認識してるなら、今すぐお改めなさい。……とんだ茶番だわ」
 その表情は万燭に照らされていては拝めない類のものだった。年齢不詳の白い顔はあくまでも作り物めいた印象で、偶然の西日だけが倦んだ老人の姿をその上に描き出している。
「貴方は兄に、いえ僕達に何を見ているんでしょうね?」
 曹の姓を冠さない貴方なら、傾きかけた船から簡単に逃げ出すことが出来るというのに。
「……いや。誰を、と言うべきでしょうか」
「……子供は嫌いだわ、慎みを知らない」
 その口調は内容に反し、拗ねたような子供っぽい響きを有していたので、妙に可笑しみがあった。
 しゅるりと衣擦れを響かせて、何晏は立ち上がる。
「ご免あそばせ」
 その袖を掴んで引き留めた。
「嘘吐き」
 振り払われる前に一度離し、すかさず立ち上がると細い腰に手を回す。間近で見つめても、白面の妖麗さに綻びは見当たらない。
「子供だからこそ、許しておられるのでは?」
 無邪気を装って、軽く接吻した。
「兄を誑し込んだ手腕。是非一度、お願いしたいんですけど」
 権力の中枢に近付く為というなら、兄と自分の条件は同じだろうに。
「真っ平ね」
 何晏は軽い誘いを、同じく軽い口調で切り捨てた。
「子供は嫌いだけど、勘の鋭い子は特に嫌いよ」
 ぐいと手の甲で口元を拭い――その仕草だけが妙に男くさくて沿ぐわない――何晏は微笑った。
「ああ、それは……」
 こちらも好奇心なので、振られても特にどうとも思わないとはいえ。拒絶の言葉が今まで口にした中で一番の本心と解っては、苦笑するしかなかった。兄にあって自分には無いものは、正しくその鈍さかもしれない。
「貴方そもそも普通だし、目覚めても受な気がするし」
「見ただけで判るんですか?」
「まァ、私程になるとねェ。貴方ももっと自分を大事になさい、……と言ってもねェ……」
 言いかけ、苦笑する。窓外の落日には、この人も気付いているのだろう。
「では、入り口だけで引き返します……」
 もう少し何晏の何かを引き出したくて、曹羲は再び口付けた。今度も抵抗はなく、深さを増せばしっかりと応えて来る。
 濡れた音に溺れている間に――気付けば暗闇に包まれていた。
 
 
 
 
 
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