罪悪感といった類の高尚な感情は、母親の胎内に置き忘れて生まれてきたに違いない。
「よ、お仕事ごくろーさん」
「暇にしているなら、少しは手伝おうと思わないのですかね」
抱えた書類越しに覗く軽薄な笑顔に悪態を吐けば、郭嘉は黙って肩を竦める。
どうせ陳羣の手が空けば背負ったハリセンに叩かれるに違いない、己の素行を鑑みて手を出す気になれないのだろう。
「何の資料?」
「冀州の主だった豪族の動向について、令君にお見せする分です」
「ふぅん、あの人なら執務室に居るから」
「そうですか」
相槌を返して、ふと何かが引っ掛かる。
「貴方もいい加減仕事に戻って下さい」
覚えた感触は些細なものであったので、日常に紛れてすぐに失念したのだが。
「ほーい」
普段なら陳羣の小言を欝陶しそうに聞き流す郭嘉は、今日は機嫌が良いらしい。いなす口調ながら軽く請け負って手を上げた。
「真実味がありませんね!」
聞き分けが良いのもそれで味気なく、仕方なし口中で文句を呟く。
そんな陳羣の内心の葛藤など気にも留めていないのだろう。
「ま、頑張れ侍御史どの」
背を軽く叩く、手の温度が衣越しに伝わる錯覚。
擦れ違いざま励ますように触れられて、一瞬言葉を失った。至近で鼻を掠める、微かに覚えのある匂い。
「……だったらサボらないで下さいっ!」
些細な気配を振り切るように怒鳴り付ければ。
「おーこわ」
戯けた応えを返す背中など、……振り返る気にもなれない。
強い午後の日差しは、生命の勢いの儘に葉を繁らす枝に光を遮られ、ちらちらと瞬く強さでしか入って来ない。背景の黒と片鱗の白とが、疎らに散在している。
気の所為だろうか、室主の気質のままに清冽な気配を纏っている筈の室内は、現在に限って澱んだ川面の温みを纏わりつかせているように、陳羣には感じられる。
「……ありがとうございます」
柔々と微笑みかける陳羣の岳父は、平常なら端然と座しているというのに、今日に限って足を崩して横に流している。その所為だろうか、僅かな違和を感じたのは。
珍しい姿の荀は、陳羣の怪訝な視線をどう捉えたか、気怠い手付きで僅かに乱れた襟を整えた。
「長文どの?」
どこか潤んだ視線で見上げられ、
「――あ、失礼しました」
その場に硬直していた陳羣は、ぎくしゃくとその人の前に足を進める。
後で誰かに申し付けて、窓を遮る枝を伐らせようと思う。白い手で筆を走らせる為には、この室は宵闇のように暗過ぎる。
「いいえ?」
僅かに首を傾ける荀の態度は日頃と何ら変わらないもので、……にも関わらず気付いてしまった陳羣は自分を呪いたくなった。
「例の資料です」
かつての、一心に荀を尊敬してそれで完結していた自分なら、些細な違和感など気にもしなかっただろう。
懐旧に内心自嘲して、抱えた束を崩さぬよう注意しつつ卓の前に膝を付く。
上目遣いで窺うように問えば、名残を滲ませながらも平然と陳羣に相対する人が小さく頷く。卓上に書類を重ね置いた。
さやさやと、光の破片が揺れる。荀の頬に白い染みを落とし、顔を上げかけた陳羣の眼に飛び込む眩しさ。慌てて再度目を伏せる。
「昏くありませんか?」
「いえ、支障ありませんよ」
「…………はい」
容赦ない眩しさが全てを灼いてしまえば、室の空気も陳羣の心も全てを濯いでしまえるような気がした。
そんな異図を知ってか知らずか。
「あ、長文どの」
「はい?」
緑陰への責任転嫁に気も漫ろ。
言い訳を拵えて辞去した暁の伐採予定が頭の大半を占めていて、聡い相手の思惑にまで気が回らなかったのが迂闊といえばこの上ない迂闊。
「笄が外れかかっていますよ」
繊手が延ばされて冠に掛かったと思った刹那。
「済みま……」
「あ」
帳の広がりで視界を塞ぐ袖がふわりと揺らぎ、恐縮の言葉が象を成す前に小さな呟きと手元の狂った気配。
頭上の重みがぐらりと傾き、
「うわっ!」
顎で括った纓にも関わらず、冠が眼前を転がり落ちる。
咄嗟に受け止めようと身を乗り出した陳羣の手は対象を掴み損ね、平衡を崩して前のめりに倒れ込んだ。
「うわっ……と、す、済みっ!」
なけなしの反射神経が顔面を卓にぶつける事態を回避…しなくとも己の持参した書類が受け止めたのであろうが、紙の山を崩すだけ崩した自身は対面の荀を支えに上体を保つ。
両の肩に手を掛け、思えば随分と不遜な振る舞い。不可視の垣根を破ってしがみ付く、いや抱きつくと言えば適切か。
陳羣を受け止めた荀の手が、さらりと肩から腕へと滑り降りる。
その拍子、鬢が陳羣の頬を擽るように掠め流れた。感覚。此方に顔を向けたのだと解って、いよいよ居たたまれない。
これでは。この、薄暗がりでは、まるで。
荀に対している己が別人であるような錯覚。きっと、あの男が遺していった名残の所為で、自分までおかしくなっている。
「あ、の…っ」
陳羣の狼狽など、荀は露程にも感じていないらしい。耳元を擽るような、小さく忍び笑う声。
そして。
「――私が憎いですか」
その囁きは、ともすれば聞き逃しそうな秘やかな吐息として。
で、ありながら、何故か陳羣の耳には抉り出された爪痕のように強く響いた。空耳であったかもしれないと意識の端では疑いつつも、その可能性はこの場合無意味。
憎くないと、己に対して断言出来ないのであれば。
くらくらと眩暈がして、凭れ掛かる肩口に爪を立てる強さで縋った。身じろぎと共に、卓上から書類が数枚、滑り落ちる気配。
……室に入った当初から、気にし続けていたのだった。
郭嘉の纏わせていた同じ薫りが、荀からも強く漂っているということに。
「――大丈夫ですか?」
「は、はい」
次に聞こえたのは常音の問いかけで、我に返った陳羣は慌てて身を離した。
「ご、ごご、ご無礼を」
「いえ、私が冠を落としてしまったのがいけないのですから。吃驚したでしょう」
穏やかに微笑い、荀は目元を細めた。
「……………いえ、そんな」
「はい、今度こそ失敗はしませんから。念の為押さえておいてくれます?」
何時の間に拾ったのか、卓の下から陳羣の冠を持ち上げて。恐縮しながら頭を下げれば、手ずから被せて笄を留め直してくれた。
「はい、出来た」
最後に、顎の前で纓をしっかりと結ぶ。幼子のように為されるがままの陳羣は、先程の一幕が悪い夢であったのかと錯覚させる常態の荀を前に、咽の手前で疑問の声を呑み込んだ。この場はそういう法則で動いている。
「あ、有り難うございます」
半ば無意識、確かめるように指先で紐に触れ、しかし陳羣は気が付いた。
表情の変化を見逃さず、荀は唇だけで微笑む。湖面に立ち上った陽炎のように蠱惑的なそれは、悪夢の名残を少しだけ揺らめかせている。
「どう致しまして」
口を塞ぎたい意思だけは朧気に理解出来た。冠の纓をすげ替えるという婉曲な手法は、慈悲を垂れたか釘を差したか。
悠然としらを切る荀を、初めて陳羣は怖いと感じる。
三日は消えない香という。それの染み付いた纓を身に付けた、今の陳羣は……郭嘉と同じ匂いをさせている筈で。その事実にまんまと心乱される自分が。
(――ええ、憎いですとも)
心中のみの独白すら見通したように、相手は笑む。
本当に自分が憎んでいるのが誰なのか、己ですら知らないことをこの人は知っているというのだろうか。
「やはり昏過ぎると思います」
この空間は。
「……頑張って下さいね、侍御史どの」
詰問は平然とはぐらかされ、どこかで聞いた言葉で水底から送り出される。
――そう言えば。
ちらちらと揺れる翳いは、水越しに眺める光にも似ているかもしれない。