返事がない。ただの屍……ではなくて、この場合は部屋の主人は留守と考えるのが当然である。主の寝所を前に、高順は暫し黙考した。
 なるべく早い方が良いと押し掛けて来たが、早朝の寝所を訪れる非礼はもとより承知の上である。邪魔なら部屋の内から怒鳴られるだろうし、寝ているにしてもこれだけ呼んで起きない呂布ではない。
 研ぎ澄まされた武人の勘は室内に人がいる気配を察知していて、しかもその人物が息を潜めている様子なのが扉越しに伝わってくる。特に先日は呂布に対する内部からの謀反が起こったばかりであり、杞憂を承知で高順は中に踏み込んだ。
 
 
 
 寝所の中に人は居た。
「……何でお前がいるんだ」
「勝手に入る奴があるか、普通!?」
 げっそりとした表情で帳を捲った高順を見上げて、牀搨の上に腰掛けている夜着姿の陳宮は不機嫌に巻くし立てた。
「入る部屋を間違えた気がするんだが……」
 遠い目をして呟く高順も、二人の関係は何となく知ってはいた。しかし目の前で確たる証拠を見せ付けられるのは、考えていた以上に衝撃である。
「ったく、どいつもこいつも朝っぱらから……」
 ぶつぶつと呟くと、陳宮は下ろしたままの髪を掻き上げ、その流れで額に手を当てて呻いた。
 ……見下ろした夜着の隙間、その胸元に紅い痣が見える。拷問の跡かとぎょっとして、一瞬後には誤解に気付いていよいよ狼狽した。突然真っ赤になった高順の視線の先に気付いて、陳宮は慌てて袷を整える。
「で?呂公に何の用だ」
「あ、ああ、萌一味の処刑に許可を貰いたくて」
「小半刻は戻られないぞ。このザマを見られた貂蝉を、泣きそうな顔で追い掛けて行ったから。今頃必死で言い訳中だ」
 苦笑した。それは確かに修羅場だろう。
「お前はどう思う?」
「あ?謀反人の処刑か呂公の醜態かどちらの話だ?」
 相次ぐ心労でやさぐれてきたのか、最近陳宮の言葉遣いがますます悪くなっている。朱に染まって赤くなったと言うべきか。
「馬鹿、先の話に決まってるだろう」
「早急に処断するのは、皆の動揺を長引かせない為にも正しい。……しかし」
 陳宮は、呆れた顔をして高順を見上げた。
「容疑者の範疇に含まれる私にそれを聞くか?」
「関係ないんだろう?」
 寧ろ陳宮がそれを気にしていたことに驚いて、高順は問い返す。
萌が配下を騙していたか、お前が曹性に恨まれるようなことをしたのか。……何やったんだお前」
「そういう文脈でその台詞を聞くとはな……」
 馬鹿にした口調だが、声程にその表情は険しくない。
「親分もお前が関わっていないと判断したからこそ、……ええと、その……」
 現在の状況を思い出して、今更ながら高順は一目散にこの場を後にしたくなった。
「……さあ、それについては一言も仰らなかった」
「そ、そうか」
 しかしそういうことなのだろう。そして、弁明もせず呂布を信じて針の筵に耐えていた陳宮も、行動だけは呂布によく似ていると思う。孤立無援のあの場で、下手な弁明で挙げ足を取られるのを警戒した以上に、陳宮は呂布を試していたのだろうか。
「面倒な性格だな」
「お前には関係ない」
 見透かされたことを見抜いたか、陳宮は顎を逸らしてそっぽを向く。……その所為で首に付けられた跡を見せ付けられてしまった高順は堪ったものではない。
「まあ、そういうことだから、俺は出直して来るよ」
 出来ればその前に帰って欲しい…と心中だけで呟いて、ぎくしゃくと強張った足を動かそうとした。
「待て」
 踵を返した高順を、しかし戎衣の裾を掴んで陳宮が引き止める。
「私の部屋まで運んで欲しい」
「ああ?それこそ俺は関係ないぞ!?」
「煩い、腰が立たないんだ、仕方ないだろう!衣を替えてから出仕しないと、昨日の今日で周りにどんな誤解をされるか分からん」
 ……どんな誤解でも、真相よりは生易しいような気がするが。
「出るのか」
「当然だ」
 周囲の目が恐いと言いながら、大した度胸だ。高順は笑って陳宮の前にしゃがみ込んだ。
「ぅわっ!」
 背と膝裏に手を回して、抱え上げる。細心の注意を払ったつもりだったが、陳宮は痛みに耐えるように眉を顰め、次いで顔を赤くして憤慨した。
「何だその運び方は!これでは私が女みたいじゃないか!?」
 自分から運べと言った癖に我儘な言い分である。少しでも楽な姿勢を取らせてやろうというこちらの好意を無下にした挙句、高順の腕から逃れようと暴れ出すに及んで、高順の我慢も限界にきた。
「煩い!似たようなものだろうが」
 叱り付ければ、陳宮は言い返すでもなく、何故か益々顔を赤くして黙り込んだ。……よく考えれば物凄いことを言ってしまったような気もする。
 そんな時に限って腕の中にある陳宮の顔が至近距離にあることを自覚してしまい、高順まで顔が熱くなってしまう。
「…行くぞ」
「……………」
 照れ隠しに呟けば、おずおずと首に手が回される。
 ゆっくりとした足取りで高順は戸口へと歩んだ。
 
 
 
「…………」
 扉に手を掛けたその時、一足早く外からの手で開かれた。
 咄嗟に高順が飛びずさった所為で、陳宮はその上体にしがみ付いている。
 二人も驚いたが、平手の跡も顕わに廊下に立ち竦む呂布は、それ以上に呆然としていた。
 たっぷり数呼吸置いた後、
「……浮気か?」
呂布はあんまりな台詞を発する。
「いっ、……いいえ、その、部屋に帰ろうとしたのですが……動けなくて……」
 陳宮の弁明は徐々に小声になり、最後には口中で呟くような有様で。
「あの、親分」
 果たして呂布に聞こえたのか甚だ不安になった高順は、代わりに口を開こうとした。
「いや、いい」
 それを押し止めて、呂布は
「すまん」
珍しく小声で謝った。目があらぬ方を向いているのは、彼もまた照れているからだろう。つくづく珍しい物を見てしまった。
「頼むぞ」
 逆に呂布から念を押され、陳宮の表情を見ずとも想像出来てしまった高順は、軽く息を吐いて。
 
 僅かに腕に力を込めた。
 
 
 
 
 
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