がしゃん。
 薄い物が割れる時特有の、神経に障る音が近くで弾けた。
 何事かと思えば、回廊の床に散乱する破片。肩で大きく息を吐く見慣れた文官。
 自分達が住む前から飾られていた非実用的な大きさの壺が、如何ほどの価値を持つ物なのか、高順は知らないし興味もない。ただ、掃除をする者が困るであろうことは顕かで、だから注意する気になった。
 
「おい」
 びくりと大きく震える背。そろそろと振り返り、陳宮はばつの悪さを誤魔化すように渋面を作った。
 嫌な相手に嫌な所を見られてしまった、その表情が何よりも雄弁に語っていて、高順としては些細な優越感を擽られる。
「毎日飽きもせず、よくやるな」
「だってあの女!しおらしい顔をして『吾とコイツのどちらが大切なんですか!?』だぞ!よりによって!!」
 下手に構った所為で、今度は自分が八つ当たりの道具にされたらしい。破片を踏みしだいてずかずかと近寄ってきた陳宮は、掴みかからん勢いで高順の鼻先に詰め寄った。
「また答えにくい質問を……」
「答えにくいなら兎も角!即答で『貂蝉』って!なんだそりゃ!!?」
 ああ、如何にもあの主君が言いそうな。
「歌や舞が戦で何の役に立つ!?鶴を愛して国を滅ぼした衛の懿公と同じではないか!」
「俺に言わせれば、お前が戦で何の役に立つのか疑問だがな」
「何!?」
 陳宮は憤懣やるかたないように、地団駄を踏んだ。
 実は怒り狂う陳宮の気持ちも解らなくもない。ただ、呂布は片方に媚びるつもりなど欠片もなく、正直に思う所を答えただけなのであろうし、それを知るからこそ陳宮の怒りも余計に大きいのかもしれない。
 高順は、自分が陳宮より大切でないと言われる場面を想像した。やはり不愉快である。ただ、どこかで『それでも構わないか』と肩を竦める自分も居た。
「で?」
「あんまり頭に来たから、公の馬鹿、と平手で殴って」
 ここまで逃走してきたという訳か。
「それは……親分も災難なこった」
 自分とは身体の造りも違う非力な文官が手を上げた所で痛くも痒くもないであろうが、さぞ吃驚しただろう。
 陳宮は拗ねたように、顎を反らしてそっぽを向く。居丈高な言動は当初癪に障ったが、その刺々しさが駄々を捏ねながら叱られるのを待っている幼児のように見え始めたのは何時からだったか。
 多分、そもそもの性質は慎重で臆病な男なのだろうと、思う時がある。
 気付けば成り行きでこんなところまで来てしまったが、高順には一片の後悔もない。例え故郷からも主からも何千里と離れた場所で独り野垂れ死ぬ日が来たとしても、相変わらず故郷を愛し、呂布を敬愛し続けている。それが自由に馬を駆る草原の男というものだ。
 しかし、元は陳宮も貂蝉も、地に根を張り、日々を堅実に生きようとする中原の民だ。
 流浪の生活を送る寄る辺無さから神経を尖らせ、必要以上に呂布へ依存するのかもしれない。
「お前の嫌っている曹操の元にでも奔れば、愚痴を聞いてくれるかもしれんぞ」
 曹操と共に居た方が、こいつは幸せだったかもしれない。
「冗談じゃない」
 そんな高順の感慨を知ってか知らずか、陳宮は憎々しげな目を向ける。
「あっちではこんな目に遭わなかったんだろう?戻りたいんじゃないのか」
 不貞腐れたように押し黙っていた陳宮が。
 
「……殴れるだけマシな環境だ」
 目を逸らし、それだけを落とすように呟いた。
 その声の澱んだ昏さに、高順は訳もなく背筋が寒くなる。憎悪ではなく、情念の響きだと、何故かそんなことを考えて。
 
 
 
 
 
 ……呂布が通りかかったのは、偶然である。
 貂蝉に構われた所為か、どことなく機嫌の良さそうな呂布は。
 押し黙る陳宮と、気まずげな高順と、粉々に砕け散った壺の残骸を等分に眺め。
「怪我はないか」
 それだけを尋ねた。
「………はい」
 小さく頷く陳宮の表情を見て、高順は己の勘違いを悟った。
 
 
 
 
 
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