酒を持って見舞いに行けば。
「確か醸造禁止令が出てなかった?」
 病床の人は声を出して笑った。
 
「親分も心配してたぜ、いよいよ楽して暮らせるようになったってのに」
「安心し過ぎて、緊張の糸が切れてしまったのかもね」
 孫乾は穏やかに微笑んだ。
「違いない。今までは落ち着いて養生も出来なかったもんなあ」
 相槌を打ち、簡雍は持参した濁酒を飲み干した。一方の孫乾といえば、最初に少し口を付けたまま、杯は枕席の側に置かれたままになっている。
「徐州牧の時も吃驚したってのに、あの親分が益州・荊州の主とは、世の中何が起こるかわかんねえや」
 簡雍の、不敬罪にも取られかねない不遜さは、常のことである。
「俺達も、やっと今までの苦労が報われたっつーか、これからは虎の威を借りて贅沢し放題生活が出来るってもんだ」
 深々と頷く不遜な男を前に、孫乾は小さく忍び笑う。
「……そんなこと言って、結局憲和は気を遣うんだから」
「そうか?」
「劉璋にも気に入られてたでしょう、支配者になりきれないのが憲和の良い所だと思うよ」
 衒いもなく断言する。病床にあってなお、穏やかな温もりを感じさせるその笑みから、簡雍は一瞬目を逸らせた。
「支配ったって、どっちみち政治は教養ある奴らに任せるしかねえし」
「憲和は内政なんかしなくて良いよ。益州の人達と仲良くなって、皆に頑張ろうと思わせれば充分」
 黙って頷く。
 孫乾はここ数ヶ月床にあって、現在の幕内の状況を知らない、それ故の言葉である。
 実際内政に限らず、簡雍達古参の出る幕は皆無に近い。民政を任されている諸葛亮が己が縁故を頼りに、どうやら益州士大夫の取り込み工作も行っているようであった。
 確かに今までの劉備政権が地盤を固められなかったのは士大夫層からの支持が欠けていたからであって、彼らのような人種にとっては庶民出の簡雍ではなく、諸葛亮のような荊州豪族を背後に持つ男の方が信頼出来るのであろう。
 上流の方々お得意の駆け引きやら取引やら、存分にすれば良い。
「公祐の言い分を聞いてると、影の君主ってかんじ?俺サマって」
 しかし屈託を見せぬよう、敢えて茶化して笑う。
 個人の力では出来ることなど知れており、もう自分達の役目はないのである。
「まあ面倒臭いコトは別の奴らに押しつけちまって、俺達は一足早く楽隠居しようぜ」
 言って、簡雍は褥の上に上体を投げ出した。俯せになって、目の前の白い単衣を手繰り寄せる。
「そうだね」
「漢王朝なんかうっちゃって、ずっとイチャイチャして暮らそうな」
「……そうだね」
 快活な声が、虚しさを帯びて響く。
 己の腰を抱いたまま動かない簡雍を見下ろし、孫乾はその頭を優しく撫でる。上げた腕は病み窶れて細くなっていた。
 
「………ごめんね」
 ぽつりと落とされた。
 小さな呟きは、聞こえない振りをした。
 
 
 
 
 
駄文の間に戻る