妙に寝苦しい。頭が重いし、体の上にも何かが乗りかかっているような……。
薄目を開けた陳羣は、結婚五年にしてやっと見慣れてきた愛妻の顔をぼんやりとした視界に認めて、暫しそれに見惚れた。
ああ何時見ても綺麗だなぁ、令君によく似てるし……って、令君!?
微睡みから一気に覚醒して、陳羣はがばりと起き上がった。その拍子に陳羣の肩に乗り上げられていた郭嘉の左足が席の上に転がり落ちる。
寝言を呟きながら寝返りを打った郭嘉は、傍らの荀により身を寄せて体勢を落ち着けた。
「なっ、な…っ」
何と不埒な、というより一体何がどうしてこの状態!?
思わず郭嘉を蹴りつけようと立ち上がりかけた陳羣は、急激に襲い掛かった頭痛にそれを阻まれ再び膝を付いた。
「っく」
その時点で小さく笑っている人物の存在に気付く。
「げ、元常どの?」
陳羣の百面相がそんなにツボに入ったか、鍾は心底可笑しそうに忍び笑う。
膝の上には寄り掛かるようにして荀攸が眠っていて、鍾の手は宥めるようにその髪を梳いていた。
「わ、笑い過ぎです」
「いや、ごめんごめん」
遠慮がちに苦情を述べれば、漸う笑い止む。それでもにやにやとしているのは、鍾もまだ酔っているのだろうか。
起き抜けのぼんやりした状態。であったのが完全に覚醒するに及んで、陳羣は酒宴の席でのらしからぬ醜態を思い出して頬を赤く染めた。
そういえば手は半ばで柄の折れた柄杓を握り締めたままで、郭嘉の額には青痣が出来ている。柄杓をへし折ったのは荀攸だったが……現在童子のような寝顔を見せている人が見せた暴れっぷりに、今更ながらに陳羣は背筋を寒くした。
歯止め役の鍾が早々に脱落した所為で、……ちょっとアレは思い出したくない……。
倒れて割れた酒壺を横目で見ながら、陳羣は記憶を消去した。
「ずっとお一人で?」
「ついさっき目が覚めたばかりだよ。どうせ目盛りを越えたらまた寝ちゃうから、わざわざ起こして相手をして貰うのも悪くてね」
陳羣の反省を受け止めて、鍾は柔らかい笑みを見せた。
「知らない仲で無し、長文もそんなに遠慮しなくても良いんだよ」
「はっ、はい」
そう言われても相手はずっと年長であり、高名な先輩官僚である。尊敬する荀すら敬意を持って応対している鍾には、どうしても畏まってしまう。
「楽しいねえ……。昔なら兎も角、皆これだけ羽目を外したのは久しぶりじゃないかな?」
昔はどんなことになってたんだ。見もしない状景を正確に把握しているらしき鍾の感慨に、陳羣は背筋が冷えるのを感じた。
鍾は床に転がっていた無事な柄杓に手を伸ばす。未だ握り締めていた残骸を放り出して、慌てて陳羣は鍾からそれを奪い取り、酒壺から素焼きの杯へと中身を注ぎ入れた。
「君は?」
「私は……」
宿酔いでこれ以上呑めたものではない。
「今日は忘れてたけど、今度は佐治も誘って呑みたいね」
鍾は旨そうに酒を啜った。
「佐治どのですか……」
陳羣にとって、どうも辛は居心地の悪い人間だった。その目から見ても、人柄にも能力にも何ら問題はない。しかし奇特にも同県の郭嘉に心酔している辛と同席していると、自分一人が輪の外にいるかのような寂しさを感じてしまうのだ。
「そんな嫌そうな顔をしないで」
数々の場数を踏んできた鍾にかかれば、曖昧な表情から透ける本心などお見通しなのだろう。
「普段はどんなに仲が悪くても、結局最後に信頼出来るのは同郷人しかいないんだから」
噛んで含めるように言い置き、再び水のように白い液体を流し込む。平然としていた次の瞬間には意識を失って倒れるものだから、初め見た時には陳羣は死んでしまったのではないかと心配した程だった。
「仲良し会でわいわいやるのも楽しいけれどね」
陳羣が代表を務める団体のことを言って、鍾はちらりと荀に視線を走らせた。
「政治の場に立てば、情義の横行する余地は限られた範囲内だから。国事に団結出来ても、一族の保全まで考慮してくれないからね、彼らは」
……悪酔いをした時のように、胸に重い物が淀むのを感じた。
かつては陳羣も潁川人が何処の人間よりも優れているように考えていて、孔融と汝南・潁川での人の優劣について喧嘩のような遣り取りを交わしたものだ。しかし長く曹操陣営に馴染んで、新しく知り合った人々と語り合い、荀を尊敬しているのが自分だけでないことを知るのは……とても幸せなことだった。
「文若はちゃんと教えていないんだねえ、本人がああいった気質だし。極端な人嫌いの癖に、手当たり次第誰にでも懐くから、奉孝も大変だ」
戯けるような、嘆息するような、俄かには判別のつかない声音で洩らす。……小さく息を吐いたのは嘆息だからだろうか。
「なんで奉孝なんです」
「いい加減解ってる癖に」
そんなもの……理解してたまるか。
散乱する肴の一群に塗れた自分の杯を見出だし、それを掴んだ。やはり呑みたい。
「注ごうか」
「お構いなく」
一気に呷る。明日は仕事にならないかもしれない。
「元常どののお話を聴いていると、私達が此処に居る意味が解らなくなってきます」
酒精の力を借りて、それだけは告げることが出来た。
「同郷人としか解り合えないのなら、何故私達は故郷を離れたのですか?」
「これは難しい問題だ。思い付きで喋っていたのが露見したかな?」
鍾は相手の切っ先をやんわりと受け流す。
「故郷は捨てるものかもしれないけれど、誰だって故郷の欠片を持って生きているものだと、私は思っているんだよ。私達の欠片はよく似ているから、同じ物だと錯覚するのかもしれないとね」
「……よく解りません」
「所詮人生哲学なんてものは自分にしか当て嵌まらないからねえ。説教がましい嫌な年寄りになっちゃったもんだ……」
何の前触れもなく、ぱたりと鍾は倒れ込んだ。その拍子に荀攸の頭が傾いて、膝から滑り落ちる。
「元常どの?」
そう言えば喋りながらもずっと呑み続けていたのだった。鍾の表現を借りれば『目盛り』に達したということだろう。
「……私は公達がずっと傍に居ることが幸福と等価だったから」
早速荀に纏わりつく郭嘉を退かそうと蹴りを繰り出した陳羣は、眠ったと思っていた鍾が口を開いたのに仰天した。
「ぁ痛っ!」
渾身の蹴りは空振りに終わり、足を滑らせた陳羣は勢いのまま尻餅をつき、したたかに腰を打った。痛い。
「いつまでも、私達が死んでも子や孫がいつまでも、こうして酒を酌み交わし続ければと願うんだ……」
尻をさすりながら次の言葉を待ったが、鍾の口は開かれないまま。
静かな寝息が聞こえ、それきり――陳羣は独り取り残された。