……強い目眩を感じ、その場に膝をついた。
「嘘じゃない」
 余裕すら感じさせる口振りで、孟達は再度繰り返す。
「関羽将軍は呉の裏切りの前に敗北。子息の関平どの共々処刑されたそうですよ」
 間者からの報告書を、見せびらかすように広げてみせる。同内容の帛は既に何通も寄せられており、劉封も冷静な部分では事実を認めていた。
「嘘だ……!」
 しかし肯定出来ない感情は、譫言のように一つの言葉を繰り返す。
 息が出来なくて、胸が苦しかった。
「現実から目を塞ぐのは結構ですが、少しはこれからのことも考えませんかね」
 呆れたように一つ溜息を吐いて、しゃがみ込んだ孟達は劉封と目線を合わせた。抱きかかえるようにして、胸に手を当てて喘ぐ青年の背をさすってやる。
「……これから?」
 凭れ掛かる内に、呼吸は落ち着きを取り戻す。発作の苦しさから涙を浮かべた眼が、傍らの男を縋るように見遣った。
「そう、こうなれば我々は無事に済みません」
 自明の理のように、孟達は言い切る。
「関羽将軍が、援軍の要請をしていたのに、送らなかった」
 薄い唇を歪めると、整った顔は酷薄な色彩を帯びる。
「陛下が、許すと思いますか?」
 真っ青になって、劉封は頭を振った。
「ま……、まさか、思わないじゃないか、あの義叔父上が破れるなんて……関平もいるのに!」
「確かに」
「それに、僕たちは上庸の守備があるのに、余分な兵力なんてある訳ないって、お前も言ってたじゃないか……っ」
「言いましたよ。状況的には、手に入れたばかりの此方の方が余程苦しい」
「なら……」
「問題なのは、陛下が聞く耳を持つかどうか」
 劉封の唇から、絶望的な呻きが漏れた。
 養子として長年接してきただけに、義父の気性はよく知っているつもりである。孟達の言い分はよく理解出来た。
「義父上は、……」
 劉封が見上げれば、己が身体を支える孟達は、宥めるような笑みを浮かべた。
「これから……」
「処刑されたくなければ、魏に降るしかありません」
 
 さらりと告げられた言葉。
「なっ!?」
 一泊遅れて意味を飲み込んだ劉封は、支える腕を振りきって立ち上がった。ぐらりと揺れる視界に、支えを求めて手を伸ばす。
 次いで身を起こした孟達がその手を取ろうとするのを。
「触るな!」
 ぴしゃりとはね除けた。
「そんな……敵に屈するなんて……それでは本当の裏切り者になるじゃないか!!」
「今でも充分裏切り者だ」
 叩かれた手をさすりながら、孟達は静かに溜息を吐いた。
「本当にあなたは関羽将軍が勝つと信じていた?」
「信じていた!」
「……あの人は陛下以外の人間には傲慢だった。もし無事に帰還したとして、援軍を送らなかった我々を訴えるとは思わなかったか?」
「……それは……」
「私はずっと思ってたよ、あいつが死んでしまえば良いとね」
 吐き出された言葉に、劉封は絶句した。上官への形ばかりの敬意を捨てた物言いをする、それが孟達の本心をこの上なく雄弁に語っていた。
「関羽の命令を聞いて上庸ごと荊州全土を失うか、関羽を見殺しにして此処の支配権だけを保つか。選んだ時点で我々はとっくに決断を下した筈だ」
 にやりと笑う。それが端正な顔立ちとも相俟って、悪鬼の表情に見えた。
「あなたも同じだ。私が何を言ったとしても、あなたは自分で今の状況を選んだ。関羽を見捨て、関平を見捨て、自分だけ生きることを」
「違う!!」
 耳を塞いで首を振る。
「僕は……僕が関平の死を望む筈がない!!」
「それでも援軍を送らなかった」
 孟達は容赦なく現実を突きつける。
 そうだ。見ない振りをしていた。彼が自分の所為で死んでしまう可能性を考えずに、手を翳す男に従って進んで目を閉じた。
「そう重く考えることはないんです」
 俯く劉封の手を取って、孟達は再度声色の調子を変えた。
「元々あなたと劉備は何の血縁関係もない。息子と呼びながらも、一片の愛情も注いでいない。あの愚かな餓鬼に全てを渡し、あなたには何も継がせないつもりです」
 教え諭すような物言いは、援軍要請を断るよう勧めたあの時と同じ。
「我々は上庸を守れば良い。今までと変わりません。魏はこの要地を欲しがっている、我々を厚く遇します。あなたは魏で実の父親の跡を継けば良いのですよ」
 容赦なく現実を突きつけた後で、再び劉封の目を塞ごうとする声だ。
 優しく支配する、その声に従えば楽になれることは知っている。
「……僕は帰る。義父上は許してくださる」
 けれど。
 疲れたように息を吐き出した。そんな劉封の姿に、肩を竦めて孟達は天井を仰く。
「やれやれ、まだそんな夢物語を信じていると?」
「僕は既に関平を裏切った。重ねて義父上まで裏切りたくないんだ」
 居住まいを正し、多分初めて孟達に頭を下げた。
 多分、これが自分の責任の取り方だと、決めたのだ。
 本気を悟ったのか、孟達も重ねて説得しようとはしない。
「では、私だけでも逃げさせて貰うよ。あなたと喧嘩したとでも言えば、皆信用するだろう」
「構わない。達者で」
「あなたも……とか言っても無駄だな。ま、しばらく生きてなさい。私が助けに来てやるから」
 劉封は小さく微笑った。それこそ夢物語なのは、互いに知っていた。
 
 直属の兵を纏めて、一旦城外に出ると言う。踵を返す孟達に、尋ねた。
「お前は……もうあの国に忠誠や未練はないのか?」
「私は孝直に付き合って劉備を推し上げただけだ。あいつが死んだ今はどうだっていいね」
 返された答えは、彼らしく簡潔。
 自分も関係ないと断言出来れば楽だったろうに、それでもしがらみを捨てたくないと思うのだから仕方ない。
 視線を反らし、また戻しても、何故か孟達はその場から動いていなかった。
「子度?」
「…………」
 何やら言い淀む気配がらしくない。眉を顰めて問い掛けようとした、それを遮るように孟達は声を張り上げた。
「……、これであなたさえ持って行ければ、何の未練もなかったろうにな!」
 後ろを向いたままで表情は見えないが。その声音は、彼を取り込む時の猫撫で声ではなく、随分さばさばとした調子であったので。
 劉封は嬉しくなった。
「彼を死なせたのは間違いだったかな」
 一度は手に入れたと思ったのに、とんだどんでん返しがあったもんだ。孟達は嗤う。
「……多分、僕は今でも、誰のことも選べてないと思う」
 彼のことを想うと胸が痛む。そして、痛みを癒してくれる手も、今失った。
 全ての人を裏切って。
「知ってますよ、若君」
 手を振り出て行く。最後まで振り返らなかったので、感情の薄そうな顔をしたあの男がどんな表情をしていたのか。
 ……遂に見ることが出来なかった。
 
 
 
 
 
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