数日前から滞在中の弟が「良い手土産を用意した」と言う。
 乞われるままその一室について行けば。
「本日は貴公に州を差し上げに参りました」
 『土産』は、開口一番そう言って、ぴんと腕を伸ばして拱手した。
 
「陳……公台どの?これは随分…その、穏やかではないようですな……」
「私は天下の大事を話しております。穏やかでなくて結構」
 相変わらず時候の挨拶もないまま、陳宮は切り込むような物言いをする。……これは自分の苦手な種類の人間かもしれない。
 人払いを命じた弟も退出してしまい、一人取り残された張は居心地の悪い気分を味わっていた。
  対面の陳宮は、一片の妥協も許さぬが如き鋭い目つきと、真っ直ぐに伸びた背筋が峻厳といった風情。親友であり半ば主君でもある曹操の片腕とも恃む参謀である、当然見知ってはいたが親しく話をしたことなどない。実直そうな男であったような、と記憶を辿れども、このような目に遭う憶えなど全くないのである。
 その張を糾弾するが如き険しい眼差しで、
「曹公の徐州攻め、あれをどう思いますか?」
「あれは………、非道いな」
相手の意図の掴めぬまま、しかしその張の迷いを咎める視線に促され、つい本音を口にする。
 奸雄と評された朋友は、彼の地で無辜の民までを虐殺していると聞く。父を殺害された嗔りは然程に凄まじかったのか、それにしても彼はやりすぎた。
「左様。あれで曹孟徳の名望は地に落ちました」
 それを受けて、陳宮は満足気に頷く。
「多くの人士があの人に失望しました。そして私は東郡にいささかの勢を張る者として、彼らを糾合する力を持っている。地方の雄を侮ってはならぬことは、かつて陳留に赴任された折、真っ先に衛子許どのを幕下へお招きになった貴公ならご存じでしょう」
 最後は少し目元を緩めて、陳宮は微苦笑した。
 衛茲。今は亡い。
 ほろ苦い懐旧を呼ぶ名に、ふと張の心が騒めく。
 節義によって名を頌えられ、車騎将軍何苗や司徒楊彪の招聘にも応じなかった彼を、着任して以来必死に掻き口説いて力になって貰った。それまで豪族の横暴に散々手を焼いていた統治が、人目に付くことを好まない彼が表に出た途端、掌を返すように楽になった。
「貴公ほどのお人なら、剣に手を掛け辺りを見渡すだけでも充分英雄として通用いたすでしょうに、今は他人に制圧されているなど嘆かわしいことこの上ない。とはいえ、東征に出かけた曹操の本拠は現在……」
「孟徳を追い出して、儂が州の主に……?」
 目の前の男はそれを実現する力を持っている。目で確認を求めれば、表情を変えぬまま小さく頷きが返る。
 無性に喉の渇きを覚え、ごくりと唾を飲み込んだ。
「いや、しかし、あいつは友人だ。それに強い、力尽くで奪還されたら……」
「かつての友人が貴公に何をしてくれましたか。袁紹とて貴公の友人だったのに、少々呂奉先に庇を貸し与えた程度で殺そうとする。曹操とて袁紹の権力に逆らえなくなる日が来ないと、何故言えます?」
 日頃危惧していたことをそのまま言い当てられ、張は顔色を失った。
「張超どのとも相談致しました。既に呂奉先を味方に付ける算段は整っております。そして表立っては動きませんが、袁公路からの援助の申し出も」
 そこまで具体的に話は進んでいるのか。
「あとは貴公の決意のみ。このまま曹操に全てを奪われるのを坐して待つおつもりか?」
 陳宮が叩き付けるように此方を睨み付けた。
 奪われる。確かにそうだ。
 洛陽から身一つで逃げ出してきた曹操を匿ってやっていたら、何時の間にか衛茲と親しくなっていた。知らない所で何やら密会し、多額の資金援助を行い、張の配下という体裁を崩さないまま衛茲は不帰の人となった。
 僅かな疑惑が、痼りのように常に燻り続けている。見ない振りをしていても。
 ……そう、孟徳は何時もそうだ。
 皆があいつを見て眉を顰めるのに、気が付けば大事な物を全て横から奪っていく。


 それを奪い返して何が悪いのだ?


「私もおります。力になりましょう」
 曹操の片腕が、穏やかな衛茲とは正反対の苛烈な、しかし張に権力を与えてくれるということでは等しい意味を持つ男が、真っ直ぐに此方を見ている。
「呂奉先と共に州を治め、天下の形勢を観望しつつ飛翔の好機を待ちましょう」
 もうすぐ自分のものになる。全てが。
「貴公の勇と弟君の敏、それに呂奉先の武と私の智、袁公路の威が加わるのです。曹賊如き、何を懼れる必要がありましょうや!」
「委細承知した!」
 これはかねてからの自分の本懐。
 熱に浮かされたような思考で、それだけは明瞭な感覚となって身を震わせる。
 後戻りは出来なかった。
 
 
 
 
 
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