強引に袖を引っ張られた時から仕事向きの用ではないだろうと思っていたが案の定、天幕まで郭嘉を連行してきた曹操は一刻の間すらもどかしい様子で寵臣の身体を押し倒した。
「わ、わ、主公ってば大胆?」
眉を顰めた表情、無言で伸し掛かってくる相手に場を和まそうと軽口を送れば、気分を害したように唇を尖らせる。
「頭が痛いのだ」
鼻面を擦り付けるように郭嘉の胸に顔を埋める仕草には甘えが滲んでいる気がして、こんな折など、このヒトは自分に抱いて貰いたがっているのではないかと感じることも一度ではなかった。とはいえ勘違いなら命の保証はないので、郭嘉としては体の力を抜いて横たわるだけであるが。
「だったら大人しく寝ちゃったらどうですー?」
「なんだ、おぬしは厭なのか」
口だけは達者に動かす郭嘉の反応をどう解釈したか、不機嫌そうに曹操は唸る。
「いや、別にそんなことはないんですけどね」
気分を害したと見て取って、郭嘉は更に言葉を重ねた。
「俺相手でもいいんですかぁ?そろそろ俺に飽きたから、文若どの喚んだんじゃありませんでしたっけ」
痛いところを突かれたか、曹操は先程からの強引さを引っ込めると、やや郭嘉から身を浮かせて顔を背ける。
「今夜ばかりは……あれの顔は見たくない」
視線を逸らして如何なる感情を隠したかは知らないが、遠い眼差しで見つめているのは昼間に刑場へと歩んだ背中であろうとは、苦い口調からも判じられた。
「あれの所為とは思っていないが」
そんなことを言う口調には諦念と悔恨と、内容に反して抑えきれない恨みすら漂い、再びぱさりと郭嘉の胸に頭を乗せる。口にした時点で、感情が言葉を裏切っているというべきか。
何故だか曹操の中では、具体的に水攻めを進言した郭嘉よりも荀こそを苦い結末を引き起こした主体と感じているらしいが、こればかりは当人らの心の問題に違いない。仮に郭嘉が庇ったとして、荀の方も今宵は主の顔を見たくないだろう気がした。
多分、今のあの人は俺の手すら振りほどく。
日が暮れてから一度も主の元に姿を見せていない片腕を、戦後処理の用もあるだろうに避けて話題にすらしなかった主人、郭嘉には理解出来ない、場の不自然な空気。
「主公?」
郭嘉は僅かに上体を起こし、己に縋り付く男のこめかみに口付けてやった。主の肩が何かを堪えて大きく震える。
きっと今頃、荀は独りで佇んでいるに違いなかった。
未だ泥濘んだ地表は、長い裾を惜し気もなく穢すだろう。
冴えた刃のように冷たい月光が、門楼とぶら下げられた二つの屍を白々と照らす。それを見上げる耳には、微かに軋む綱の音が届くだろうか。
夜の静寂と同化したあの人の瞳には何の感情も浮かばず、なぞるように刻み込むように、死して寄り添う主従をただ見つめ続ける。
その蒼醒めた頬は氷のように冷たくて――
……現実の郭嘉が触れた曹操の頬は、人肌の温もりを手に伝えてきた。それに引き戻される。そんな郭嘉を繋ぎ止める強さで肩を掴んできた硬い手は、寧ろ火傷しそうな熱さを持っている。
と、その手が苛立ちともどかしさのままに、郭嘉の上体を再び押さえ付けようとしてくる。
別に逃げたりしないのに。
思わず唇を綻ばせる郭嘉は、このまま月光の届かない夜を過ごすことになるらしい。
衣の隙間から肉付きの悪さを確かめるように肌をまさぐる、その指先が小さく震えていることに気付いて、郭嘉は不意に胸が締め付けられそうになった。
震えを堪え、爪の色を無くすまで固く閉じられた白い手を幻視して。
「公台……」
嗚咽じりの掠れた声が、郭嘉ではない字を呼んだ。
自分へ向けてではない接吻を受けながら、郭嘉は二重に聞こえた声へと胸の内だけで応えを返す。
大丈夫、俺はここに居ますから。
証するように背へ腕を回し、郭嘉は目を閉じて身を委ねた。