先刻、萌に荷担し呂布への謀反を企んだ者達の処刑が執行された。
 突然の謀反が齎した混乱の中、呂布自身は妻妾と共に下城から脱出し、高順の陣へと逃げ込んだ為に無事である。しかし、少なくない年月を共にした部下の離叛は、呂布軍全体を揺るがす衝撃を与えた。
 主君である呂布自身が裏切りを重ねて今日まで生きてきたのである。朝の軍議で目に付いた空席から、昨日までの仲間同士が平気で刃を交える乱世であることを再確認してしまったゥ将や官吏は、どことなく神経を尖らせた表情で回廊を往来している。
 萌軍を討伐し全軍の動揺を最小限に抑えた高順は、一時的に入城して兵を監督している。不意に高まった己の声望には気付かぬ体で、処刑執行の報告書を張遼に託すと官衙に向かわせた。泰然とした態度は、他人の目を全く気にしないという欠点であったかもしれない。
 
 
 
「兄貴!あれ、あれっ!」
 注意する者が居なかった張遼は、回廊を疾走して戻ってきた。息が切れて巧く声が出せない。
「な……なんで官庁に軍師…陳公台が居るんですか!?」
「親分の寝所なら兎も角、役所に責任者が居ても怪訝しくないだろう」
 珍しく下手な冗談を言って、可笑しそうな顔も見せずに高順は唇を曲げた。驚いた様子がないという事は、先刻承知で張遼を遣いに出したのだろう。ならば先に一言でも言ってくれれば良かったのに、と張遼は恨めしく思う。
 報告書を受け取る見慣れた顔は、張遼が仰天しているのを完全に無視して、平常通り僅かに不機嫌な顔つきで「ご苦労」とだけ口にした。
 本人を問い詰めることも何やら恐ろしくて出来ず、代わりに捕まえた兄貴分である。
「ですが、昨日の今日で」
「嫌疑は晴れただろ」
 晴れたなどというものではなかった。その場にいた張遼の目には、寧ろ真っ黒に映った程だ。
「曹性の奴が、袁術の野郎と手を組んで殿を除こうとした張本人だって目の前で暴露しても、顔を真っ赤にして黙ったままで」
 土壇場で萌を裏切った元部下の告発は、事が事だけに衝撃以外の何物でもなかった。同席していた全員から疑惑の眼差しを一身に浴び、陳宮は唇を噛み締めていた。僅かに震える唇、膝に置いた手を強く握り締め、視線ばかりは殺意を漲らせて萌と刺し違えたという傷跡痛々しい曹性を睨み付けていたが、結局その口からは呻き声すら漏れなかった。
 呂布も深くは問い詰めず、有耶無耶のまま無かったことにされた嫌疑は、皆の胸に収まりの悪さだけを残している。
 身に覚えがないのなら反論の一つもすれば良いだろう。天地に恥じる所がなければ堂々と潔白を誓える筈だ。
 陳宮が呂布に接近する前から袁術と繋がっていたのは周知の事実で、本人が沈黙を続ける限り、劉備の処遇以来関係の悪化している袁術と結託して呂布の暗殺を企んだという如何にも有りそうな嫌疑は一向に払拭されないのである。
「その有りそうなという所が、逆に胡散臭いんだがなあ」
 至極真面目な顔つきで、高順は首を捻る。陳宮と喧嘩ばかりしている高順が何故一片の疑いも持っていないのか、間近でとばっちりを受けてきた張遼には俄に信じられない。
「兄貴にとってはそうでも、皆は違うんです。兄貴は忘れたんですか?軍師は曹操を裏切ってウチの殿に付いたんです、また同じことしたとしても怪訝しくないですよ」
 万一濡れ衣だったとしても、疑われるに至った態度を反省して、自主謹慎でも行なうのが筋だろう。
「仕事を放り出してか?」
「行政なら地元の陳珪・陳登親子がいるじゃないですか。余所の人間なら、陳紀・陳羣親子も何だか有名らしいし。殿も皆も、何故軍師しか謀臣がいないように決め付けてるんですか?そもそも文官がそんなに大事なんですか!?」
「俺だって今でも思ってるよ、文官が何の役に立つんだと」
 日頃は陳宮と最も折り合いが悪いと言われている男が、躊躇い無く断言した。その同じ口調のまま、
「仲間の価値ってのは役に立つ立たないで決まるもんじゃないだろう」
言って、宥めるように張遼の肩を叩いた。
「あれでも奴なりに精一杯なのだろうさ。仕事が余程気になるんだろう」
「兄貴の見方は贔屓に過ぎませんか?軍師は并州の男ではないのに」
「誰が何を言おうと、最後は自分の目だろう。あいつは親分を裏切らないと、俺は思っている」
 高順の言い分は正しい。しかし張遼にとっては陳宮も、自身の判断すら信じられないのである。
「ですが……」
「そうだな、あいつが信用出来ないなら俺を信用しろ」
 張遼の逡巡を察したか、高順は胸を張ってそれを請け負った。
「俺が信用出来ないなら、その時は親分だな」
「兄貴を疑うなんて滅相もない」
 ある意味では主君である呂布よりも信用出来ると思っている相手である。慌てて張遼は首を振る。
「……なら、兄貴は俺が何か言われても信じてくれますか?」
 不安になり、尋ねてみた。
 陳宮への思わぬ信頼に、よく知っている筈の高順の姿が、ふと揺らいだこその不安だった。陳宮のことが羨ましかったのかもしれない。
「勿論、そもそもお前のことなら誰も疑ったりしねえよ」
 高順がそう言うなら、自分のことも信じられそうな気がする。
 笑顔で請け負ってくれたことが嬉しくて、張遼は言われるままに陳宮への不信を忘れることにした。
 
 
 ――高順が否定した「皆」というものの恐ろしさを、そのまま失念したのである。
 
 
 
 
 
駄文の間に戻る