――気付けば、小舟で川を下っていた。
 いや、その認識は正しくない。江の支流の一つと思しき流れはあまりにも緩やかで、自分が向かっているのが上流やら下流やら、呂蒙には俄に判別がつかない。
 田へ水を流す為、住む者の足となる為、蜘蛛の巣のような細い水路が縦横無尽に張り巡らされているのが、この地方の川である。地元に不案内な者が迷い込めば、葦と水の迷路から、簡単には抜け出せないだろう。
 大軍が通るには適さないが、その不便さを巧みに利用する江賊の討伐に、何度か向かったことがある。その時は、こんなに穏やかな道行ではなかったが。
 動きの見えない水は、澱んだ臭いを篭めている。差し込まれた櫂が、深く沈んだ澱を掻き回す度、日中に蓄えられた暑さがどんよりと立ち上ってくるように思われた。
 その櫂を操る水夫は顔こそ見えなかったが、編笠を被った姿はそこいらの漁民といった風情で、迷いない操船からも付近の民人との想像を否定する材料はない。粗末な造りの漁船は、水夫の持ち物だろうか。
 
 
 
 そんなことより、呂蒙にとっては同船者の存在の方が余程気になる。
「どうした?子明」
「いっ、いえ!」
 古参の武将と言われ、貫禄も付いてきたと専らの評判の己が、この朋輩の前では新入りの一兵卒そのままのようだ。
 こんな夜中、どうして二人で小舟に揺られているのか。
 質問したかったが、気働きの出来ぬ奴と思われるのが怖くて、尋ねることが出来ない。
 その感覚は嫌と云う程覚えのあるものだったが、近年稀に見る穏やかな様子の周瑜を前に、言い知れぬ違和感が付き纏う。我知らず呂蒙は首を捻った。
「母御は元気にしているか?」
「はい、お陰様で。あの年にしては、随分元気です。偶に寝付いても、姉が顔を出すと喜んで」
 応えながら、そういえばこの人に会うのは久し振りだったと思い出す。
 違和感の正体はそれか、しかし何故己の上官と会うのが久方振りなのだろうか。
「子明を見ていると、良い育て方をして貰ったのが解る。孝行しろよ」
 誰よりも誇らしい母を褒められて、面映ゆさに呂蒙の頬は弛む。
 今に引き替えれば、他のことなど皆些事だ。
 周瑜が笑む。晴れやかな笑顔につられ綻んだ顔を、更に認めて和やかな空気。
 その間も、舟は葦原を漕ぎ進む。
 
 
 
「あれ、蛍火蟲ですよ」
「そうだな」
 何時の間にか、丈の高い葦の間を、幾つもの蛍が飛び交っていた。闇夜に、水面に、幽かな瞬きが照り返して、大層優雅な景色。
「こうして見ると、銀河を渡っているようですね、俺たち」
 水面は夜空。灯火は星辰。
「阿蒙にしては気の利いたことを言う」
「酷いですね、俺だって呉下の阿蒙に非ずと言われてるんですから!……?」
 ……誰に?
 思い出せないことが不意に苛立たしくなったが、
「そうだな、もう東呉を支える立派な漢だ」
周瑜がそう言ってくれるから気にしない。
 そう判じた途端。不意に、口元に言葉が込み上げた。
「俺、そう、ご主君や、公瑾どのや、……」
 溢れ出るままに言葉を継ごうとして、一部の冷静な己がその語を抑える。飲み込んだ人の名の代わりに、「この国の為に」と続けた。
「皆が幸いになるなら、その為なら何だってするんです、どんなことだって厭いません!」
 ずっと言いたくて、仕方なかったのだった。
 誰かに――多分この人に。
 
 
 
「……本当の幸いとはなんだろう」
 黙って聞いていた周瑜が、ぽつりと漏らした。
「私には結局判らなかったようにも思う。どうすれば、一番良かったのか」
 あくまでも静かに言葉を紡ぐ周瑜は、言葉と裏腹に何かを悟ったような表情だった。
 
 呂蒙の眼から、泪が溢れる。
 
 そう、周瑜は、もういないのだ。
 違和感を感じて当然だ。幸いというなら、酷く幸いな夢。
 あれから十年以上が経ち、現実世界では彼の居た場所を占めているのは、他でもないこの呂子明。
「俺たち、ずっと一緒には行けないんでしょうか?」
 ずっと、死んだ主の意志を受け継いだ周瑜の背中を追いかけていれば、望んだ場所へ行けると思った。その為ならどんなことでもしようと、その周瑜が死んだ後すら思い続けてきた。
 ……自分が重大な局面を差配する立場になって、初めて道が判らなくなった。
「公瑾どのは選んだんですね」
 もう、答えない。生きていた頃も、こんな問いには答えなかったろう。
 きっと周瑜も密かに迷い、そして最期は一つの道を選んだのだと、今の呂蒙には解った。聞くまでもないことだと、ひとを何だと思っているのかと、かつての上官は小言を言うだろうか。
 
 
 
 舟は進む。
 気が付けば、蛍の飛び交う川面の上に、周瑜はいなかった。……最初から水夫と己だけだったのかもしれない。
 立ち上がると、舟は危なっかしく揺らいだが、足の力で水平を保とうと努力すれば転覆しなかった。呂蒙とて、随分前から舟を操る東呉の男だ。
 相変わらず、上流の荊州を目指しているのか、下流の先にある大海原へ漕ぎ出そうとしているのか、よく解らない小舟である。
 背を向けたままの水夫の顔は見えなかったが、運命とは時に応じてどのような顔でも見せるものだということを、呂蒙は既に知っていた。
 時には鬼のような形相を、時には女神のような容を。
 それが振り向くまで、人の身にはその本性など見えないというもの。
 
 そうだ、月の位置から、どちらに向かっているか判る筈。
 この夢の中では無駄なこととは知っていたが、好奇心のままに天空を振り仰いだ。
 ――笑ってしまう。
 
 
 
 頭上。

視線の先には、滔々と水を湛えた長江の流れがある。