無明長夜
 
 
 
不意に、細長い影が足許に伸びてくるのを見付け、陳宮は頭を上げた。
格子の隙間から洩れるように、幾筋にも渡って光が差し込んでいる。暗闇に閉ざされた獄舎内においては珍しいことだった。
陳宮は膝を抱え込んで、幾日も広くはない独房の隅に座り込んでいる。今更何が起ころうとも、興味は起きなかった。気力が衰えている。
獄吏達の狼狽えたような声が散発的に聞こえ、それが近くなって光と影も一層濃くなった。
やがて、数日間で顔を覚えた獄吏の一人が松明片手に先導してきたのは。
「……公台どの」
かつては毎日のように聞いた、澄んだ声音。神々しいばかりの容姿を持つ彼の口から紡ぎ出されるそれが、まるで巫による神託のように響いて陳宮を脅かした、……それをずっと忘れていたことに、気付いた。
彼は最後に会った四年前と全く変わっていないように見えた。白い顔は、焔色に煽られていてすら、蒼白になっていることが見て取れた。
覚束無い足取りで近付き、格子の前で膝を付く。彼の顔色の悪さより、上等であろう裳が汚れないか、そちらの方が気になった。
「……れ、令君」
「ご苦労様でした。少し下がって頂けませんか?」
「しかし……」
獄吏と些かの遣り取りを交わした後、松明を残して獄吏は振り返りつつ立ち去った。とはいっても異変を感じれば直ぐに飛んで来れる場所に控えているのだろう。
改めて、目の前の人を見遣った。何故か、昔よりも小さく見える。
「お久しぶりですね、文若どの」
ひび割れた声と共に浮かべた笑みも、強張っていたかもしれない。
 
 
 
「……ええ、お久しぶりです」
やや困惑したように、荀は挨拶を返した。確かに、監獄の格子を前に交わす言葉としては限りなく不適切だ。しかしそれを言うなら、深夜こんな場所を訪れる荀こそが、非常識であろう。
そもそもこの薄汚れた場所に彼が居るというのが、場違い過ぎて現実感に薄い。斥候の報告では彼は此度の遠征に参戦していない筈だったが、勝利を見越した彼の主が戦後処理の為に呼び寄せていたのであろうか。
自分達の敗北が、予定調和的に思われていた。敗者の側としては当然面白くない。
「何をしに来たんですか。惨めな私の姿を見て嘲笑いに?」
「いえ、そんな……」
傷付いた表情で、荀は眼を伏せた。頬が紅い。
香を焚きしめた荀。饐えた匂いを放っているであろう自分。
長きに渡る籠城の末、獄に繋がれている。空腹と疲労で、頬がこけて人相も変わっているかもしれない。そんな自分を、荀は悪気もなく同情の眼差しで見ているのだろう。それについて皮肉を放った割には、気分を害している訳ではない。
却って、彼からの羨望を受けて立っていた過去の方が、陳宮にとっては気の休まる暇もなかった。
縋るように格子を掴む。居たたまれぬように、荀は伏せたままの眼を逸らした。
「……明日。呂布以下、捕虜の処遇についての最終的な判決が行われます」
夜が明ければ自分の命運が決まると、言う。
この場合続けられるのは逃亡の誘いか。荀が手引きをして、そして脱走者として詮議の前に斬られるという寸法だろうか。この男の高潔さと忠誠心を知っている者には引っ掛かりようのない罠だと……、
「主公は、あなたを許すでしょう」
ようやく顔を上げ、こちらを見据えて発された言葉は、予想と違うものだった。懇願の色を浮かべた瞳と視線が交わった。正直まずいと思う。
彼の瞳は深い色をしていて、一度引き込まれれば憎悪や反感すらその内側に取り込んでしまう。
「張文遠以下の諸将、……いえ、呂布ですら、あの方は許すお積りでしょう」
「それで、私に何が言いたいのです」
「主公の元に戻ってください」
懇願するような。いや、これは懇願なのだろう。
「あなたの才は、私から見ても惜しいと思います。どうか主公の為に、かつてのように力を貸してください……!」
格子を掴む指先が、震えている。
 
 
 
部屋の隅に居てはいけない。このまま気圧されるのではなく、閉じ篭もるのではなく。
あちこち強張った筋肉を動かし、這いずるようにして格子に近付いた。自分で思っていた以上に体力をなくしていたらしい。それだけのことに、眩暈を覚えた。それとも、場違いにも強く薫る芳香の所為だろうか。
「文若どの」
膝を付いたままの荀は、目線の高さが殆ど同じである。
「お断りします」
縋るような表情が、落胆で覆われた。
「何故………」
「疲れました」
自分でも、その言葉が正確かどうかは解らなかった。
しかし、彼も陳宮が生を選ばないと漠然と予感していたからこそ、わざわざ前夜ここを訪れたのだろう。
「解りません……」
は、緩く首を振る。
「私の主君は、呂奉先しかいないのです」
そう、そういうことなのだ。
目の前の荀を見つめる。格子越しでないと、ここまで近い位置に座ることなど、一度も出来なかった。
自分が特別な存在だと自覚しない罪。
誰が見てもより優れているのは彼であるのに、一途な程に向けられる羨望と嫉妬の眼差しはまるで刃物で。
それを受け止めて、本来以上の大きさに見せようと必死で己の姿を取り繕う、欺瞞。
それを何も言わず見ているあの人。
……一切の虚偽など歯牙にも掛けず蹴散らした、あの嵐のような男に出会って、初めて頭上に蒼穹が広がっている事実に気付いた。
策士として有能であるか判断する心積もりもなく、そもそも陳宮が何者であろうと気にしないのだろう。
呂布という男は、目の前にいる男を、そこに在るのだとただ頷いた。
 
初めてだったのだ。
 
「あの方と共に死ぬことが、最後の臣下の務めだと思っています」
こうして、あの人に叛いた挙句、自分は呂布を道連れに死んでいく。
主君が天下に覇を唱えることが出来なかったのはやはり、陳宮が謀士として能力が足りなかったからなのだ。
なのに呂布は、捕らえられるその時ですら、全く陳宮を恨まなかった。
 
「そうですか……」
寂し気に微笑んだ、彼の眼から一筋、伝うものがあった。
「張孟卓どのも亡くなりました。あなたも主公を置いて、往くのですね……」
昔は、彼の態度にある偽善に虫酸が走ることがあった。
あくまでも曹操のことだけを考えて陳宮を生かしたいと思い、しかしその死には涙する。
その心の有り様をそうと認めるようになった自分は、変わったのだろう。
あの人の傍らに在り続けた彼は変わらない。昔のこと、と思える自分は変わって、身を縮めるようにして元の場所に収まることは、もう出来ない。
はらはらと涙を零す荀の、格子に掛けられた手を取った。どうしてかは解らない。
「文若どのは、これからもご壮健で。私は、わが主公と与に、一足先に泉下へ参ります」
何かを、予感したのかもしれない。細い、白い手に。
しかしそれは、自分には関係のない話であった。
「ええ、……有り難うございました……」
何に対する謝辞かは解らなかったが、俯いたまま、彼はぎゅうと手を握り返した。
 
隙間風に煽られて、松明が大きく揺らいだ。照らされた此岸も刹那、様変わりする。
別の出会い方をしておればなどとは語るまい。
常に何かを間に対峙した、ただ奇妙な縁のこの男を決して嫌いではなかったと、そのことは伝わったろうか。
 
 
 
 
 
 
 
明日、陳宮は死ぬ。
しかし、最後の、唯一の主のことを想うと。
暗い監獄も、薄汚れた自分も、十二月の冷たい風も、
何も気にはならないのだ。


……これも誰かに伝わるだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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……ええと、何でこの場面で令君が出てくるんでしょう?(汗)
本当のところ、私、呂布主従は許昌で処刑されたと思い込んでたんですよ。直後、劉備一行が許に行ってるのも誤解に拍車をかけました。
しかし、正史と演義を読み返して、「あ、すぐに下で処刑してら……」と発覚。
多分令君は留守番だったと思うのですが、ここで処刑前の陳宮に会わせるのが伏線になってくるので、没らせるには忍びませんでした。(-_-;)
「蒼天航路」でこの場面に荀居たし(荀出てくる中で、1、2を争うくらい好きな場面です…)。まあ演義にも出てるし、もう構わないんですかね、この場合。

蒼天や北方の、捕まった陳宮を助けようと籠城している城から出てきて自らも破滅する呂布が、とても愛しいのです。園田版は信じないぜ(笑)。
――ここまでされたら陳宮も前夫の誘いに乗る訳にはいかんでしょ、みたいな(苦笑)。
そのシーンや、曹操の涙の説得にも耳を傾けず刑場の露と散る場面は、今回は敢えて匂わすだけに。別の人視点ではまた書くかもしれませんが。