「はァ?逃げられた〜〜!?」
 報告義務などそっちのけ、数日ぶりに対面した主に向かい、郭嘉は開口一番それを言った。
「いや、逃げられたのではなく派遣したのだ。袁術討伐にだな」
「そんなん同義語ですよ。本気で劉備が帰ってくると思ってるんですか?」
 アホですかあなたは、とまでは流石に言わないが、ほぼ言うのと変わらない口調と目線である。日頃は上座で尊大にふんぞり返っている曹操が珍しくもしゅんと縮こまっていると、ただでさえ小柄な体躯が益々もって小さく見える。
「先刻仲徳にも怒られた」
「当然に決まってるじゃないスか。大体公孫の仇って、死んで何ヶ月経つと思ってるんです。何処のアホでもそんなの鵜呑みにしませ……」
 つい二人で悪巧みしている時のようにぽんぽん罵倒していたが、ここに来てやっと郭嘉は第三者の存在を忘れていたことに気付いた。
「…ん、よ…………」
 失念する程にこれでも激怒していたのだが、まさか自分がこの人を忘れることがあるとは。
「ねえ?」
 郭嘉の隣、散々ねちねちと嫌味を口にしつつ主の室に同道した荀が、それはもう穏やかな表情で微笑んだ。あまりの涼やかさに、郭嘉の体感温度は軽く十度は低下する。実際、興奮で顔を赫くしていた筈が、今や蒼白呆然の体であった。
「ぶ、ぶぶぶぶ文若どの……っ」
「私達が視察で出払っている隙を衝かれましたね」
 大掛かりな視察から帰還した所である。尚書台や典農部の高級官僚だけでは人手が足らず、司空府からも参謀職が多数駆り出された。郭嘉も久々に陽に里帰りしていた。
「そんな、だってまさか、主公がホイホイ放しちゃうなんて思わないじゃないですか!」
 主を詰問していた筈が、何時の間にやら郭嘉の方が詰問されているような塩梅になってきた。
「誰も反対しなかったぞ、相談しようにも誰も居なかったし」
「ゥ将の方々でイイじゃないですか!!」
 理由は解らずとも郭嘉の繰り出す矛先が急に鈍りだしたのを察知して、早速態度を大きくした曹操は駄々っ子のように唇を尖らせる。
「だってアイツら頭悪いしなあ。そもそも汚職はなかったなら、大々的に視察なんかするのは超無駄ではないのか?」
「そうでもありませんよ、主公。発端が何であれ、意義はあったと思いますから。ねぇ奉孝?」
「えええええええーとぉ………」
 意味あり気な荀の視線をちらりと向けられ、郭嘉は大量の冷や汗を流した。
 また蒸し返されたし。執念深い。ねちこい。酷い。
 なんだか色々あった割に、何も変わらなかった気がする……当然かもしれないが。
「ん、この件に奉孝も一枚噛んでおったのか?」
「いや、まぁ、ははは……」
 高級官僚による屯田一斉査察、その発端となったガセ密告を荀の屋敷に投げ込ませた犯人である所の郭嘉は、無意味にうろうろと視線を彷徨わせた。
「でも例の投げ文はガセだったのだろう?」
 そりゃ俺の嘘八百ですもん。当然郭嘉は口に出せず、曹操の問いに頷いたのは荀の方である。
「書類上からも不審点は見付からなかった以上、元々然程の懸念はしておりませんでしたが」
「なら」
「とはいえ今回の視察で、少なくとも潁川全域だけでも足場を固めることが出来ました。今後袁紹側の策動があっても、動揺は最小限で済むでしょう」
 責任転嫁の可能性に身を乗り出す曹操を、流れる口上でさらりといなした。
「袁紹は汝潁には未だに繋がりを有しております。主公と本格的に刃を交えるとなれば、汝南から豫州東部……徐州にかけての地域は、袁紹の要請に応じて反旗を翻すでしょうね」
「………………………すまん」
 まさにギャフンと言うべきか、藪を突いたら蛇が出てきたような具合に話が劉備のことに戻り、曹操はがっくりと項垂れた。
「……わざわざ軍を与えて解き放ったにせよ、最悪の事態にはならないでしょう。劉備とて己の足場の為にも、袁術の討伐くらいはするでしょうし。一応他郡の県令をすげ替える段取りはしておきますが、完全に動揺が抑えられるとは期待なさらぬように。
 潁川に関しては裏で内通していても、此方が常に目を光らせていると実感した以上、表立った反抗は起きない可能性が高いと思います。誰かさんのお陰で渡りに船だったかもしれませんね」
 なんというか、これは荀の一人勝ちである。生きながらに心の臓を滅多刺しにされる感覚を擬似体験しながら郭嘉は低く呻いた。曹操とて似た状態だろう。
 この状況で一番痛恨なのは、劉備殺害の可能性をふいにした荀である筈だろうと郭嘉は思う。
 直ぐにでも廷吏を呼んで来そうだったのを必死で押し止め、手を引かせるよう色々別の問題を持ち込んで胃を痛くさせた挙句、自分の撒いた小細工が原因で獲物に逃げられた郭嘉の立場は……。考えれば考える程マズイ気がしてきた。
 これは絶対怒られる。
 文若どのが妙に主公に優しいのは、俺の方に激怒しているからに違いない……!!
「ごっ……ごめんなさいっ!すみませんでした……!!」
 剰りにも居たたまれず、反射的に郭嘉は土下座した。額を床に擦り付けるようにして伏し拝む、荀を。
「あ?」
 主である自分にもしないような礼を突然同僚に行い始めた愛臣の姿に、曹操は目を白黒させた。曹操からすれば、謀臣二人に寄って集って己の慢心を罵倒される会見であった筈である。結構心の準備もしていただけに、何故謝らせる側の郭嘉が謝っているのだかよく解らない。しかも荀に。
 ……正直、主役の座を奪われたようでちょっとムッとしている曹操である。
「私の言う通り早く取り除いておれば、ということでしょう」
 他の諸々は全て省略して、荀は一番表面的で本質的な部分のみを曹操に教えた。
「ああそうだったか。奉孝は劉備は生かしておいて構わないと……」
「そこまで主公が信用されるとは考えていなかったことが、彼の誤算でしたね」
「うぐっっ……しかし陥としたと思ったのだがなぁ……」
 怯みつつも反省の色無く首を捻る曹操と、土下座したまま石像と化して動かなくなった郭嘉を見て、荀は内心湧き上がった笑みを噛み殺した。
 多少やりすぎてしまったが、本当に曹操はへこたれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――実際のところ、郭嘉が怯えている程に機嫌が悪い訳でもないのである。
 政治・軍事状況からも決して喜ばしい事態になったとは言わないが、荀としては却って憑き物が落ちたように、すっきりとした心持ちなのである。この顛末を半ば予測していただけに、然程驚いてもいないからであろうか。
 これで立場が明瞭りしたことを、寧ろ歓迎している程。
 
 
 
 口では荀に対して庇うようなことばかり言っていたが、そもそも曹操自身が劉備のことを全く信用していなかったことは先刻承知していた。手に入らないもの程に欲しくなる、いつもの悪い病気である。
 今に始まった病気でなし、暴言すれば曹操にとって自分に敵対する陣営の人間は全員恋愛対象である。他君主に仕える将官とは違い、劉備に関しては同格の匂いを感じた所為で余計熱心になっただけだった。関張二将や、徐州統治の為に糜氏の兄弟を欲しがっていたことも、荀は知っている。
 今回の場合が厄介だったのは、明らかに劉備が膝を屈しておらず、しかし表面上は臣従している風を装っていたことだった。届かぬ花は手折りたくなる。呼べば来る近きに居るのだから口説き放題である。靡く気配もないから執着は募るし、簡単に陥落させられそうだから諦められない。
 それを判って行動していた劉備こそ、全く以て食えない仁だった。
 頃合いを見て蹌踉めいたフリをすれば、曹操は冷める。飽きかけて警戒の緩くなった隙を衝いて、兵をもぎ取って都から脱出するという一大ペテンを行った、侮れない手腕である。
 これは夏侯惇のような空気の如き信頼の揺らいだことなき宿将や、郭嘉のように現在が絶頂期にある寵臣には見抜けない落とし穴の筈だった。熱烈に求愛され、飽きられ捨てられた者をこの目で見て、やがては自らも冷められた荀だからこそ明快に見える隙を、半年経たずに発見し利用した劉備の嗅覚は天才的であり、乱世を徒手空拳で渡り歩いた本領発揮と言える。
 背かれて曹操は再び劉備が惜しくなったろうが、荀からすれば目の前にさえ居ない以上、後はどうとでもなる。
 次に捕縛出来ても今度は大物になっているだろうから、呂布と同じで助命は出来ないだろう。先日のように状態の良い入手機会はもうないのだから、それで良い。
 
 
 
 荀は、自分が上機嫌ですらある理由を自覚していた。
 目の前に居ないのなら、敵勢力として邪魔して来ようが、劉備の生死も去就もどうでもよいのだ。
 口さがない噂というものは、往々にして真実を突いている。女子供のような嫉妬心が半年来の鬱屈の原因とは、何とも阿呆らしい話ではないか。
「奉孝」
「は、はィ!?」
 取り敢えずそのままにしておけないと郭嘉を呼べば、頭を下げたまま叱られた子供のように飛び上がった。郭嘉の場合、荀の幼稚な感情など見抜いた上で優位に立つ為に策動していた筈なのに、失敗した負い目から完全に動揺し忘れている。
「なってしまった結果はどうしようもありません。それより残りの方はどうなっておりますか?」
「あ」
 そこが未熟で可愛いのだと、滅多に見られぬ殊勝な姿を微笑ましく眺めながら促せば、やっと思い出したという風に郭嘉は顔を上げた。
「一つくらいは予定調和の内です。他を完璧に備えておけば、我らの陣営がそう簡単に揺らぐものですか」
「何だお前ら、残りの方とは。儂に黙って何事か企んでるな?」
 一枚噛ませろと言いた気に、興味津々といった体で曹操は目を細めた。狡知さを前面に出したその表情は、既に情けないフラレ男ではなく、乱世の姦雄のそれである。
「あー、それはですねえ。劉備の件もあったから慎重にしてたんですけどね?」
 表面上だけでも完全復活した郭嘉が、勿体ぶって話を焦らして曹操の反応を楽しんでいる。
 それから三人は袁術との交戦すら近未来である劉備が裏切ることを前提に、董承らの効果的な処分について額を寄せ合い密議を凝らした。
 すっかりと常の姿である。
 
 
 
 
 
 



 
〈完〉
 
前← 駄文の間に戻る

……なんだか〈完〉の文字が見えますが。
幕間がどうにも難航し過ぎて、先に表を上げることに致しました。敗北者です。
なので、「中原逐鹿」としてはこれで完結ですが、時間を遡って幕間二つ(7話当日の夜になります)が未だ残っている状態。
そちらは恐らく裏更新になりますので、また忘れた頃に更新ページで不審な記述があれば、宜しければチェックをお願い致します。

内容的にはあんまりツッコミどころがないですねえ。
会話文ばっかりだし。同じ場面で郭嘉から荀ケに視点移動してるのが、ルール違反というか変則的ですが。
あと、何故参謀連中が揃って視察に行ってるんだよという演義の記述には不審を覚えていたので、こーゆー風に使いました。
郭嘉自業自得。

今後は、曹操や郭嘉が戦争準備に忙しくする傍らで、荀ケの地方官すげ替え策の所為で陳羣がドサ回りしながら結婚準備です。
そして「嘉辰令月」に続く(笑)。