無題
さあっと一陣の風が吹いて、周瑜の長めの鬢(びん)を揺らす。それを、孫策はただ眼を細めて眺めていた。
城の望楼には、今彼ら二人だけがいる。
行儀悪く足を投げ出して座り込んでいる孫策の傍ら、周瑜と言えば相手をするでもなく冷めた眼差しを望月へと向けていた。月光によって仄かな陰影を付けられた幼馴染みは、ただでさえ整った顔が常にない冷たさを帯びているようで、孫策にとっては月よりも余程酒の肴になる。
心地よい夜風を楽しむかのように、二人は先刻から押し黙ったままだった。
かたり、と孫策は空になった盃を床の上に置いた。そのまましきたりも無視して、自ら乳白色の酒を盃に注ぐ。
煽るように飲み干す。
強い酒が胃の腑をかあっと熱くした。
「……そのような飲み方では、お体を壊しますよ」
「莫迦。酒も飲まずにぼーっと月ばっかり眺めてるお前の方が異常だ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
自分から月見に誘っておいて、それはないだろう……とは言わない。ただ煩いお目付役のいないところで酒が飲みたかった孫策であることを、周瑜は知っている。
「大体月なんか見てて何が面白いんだ?」
「少し……考え事をしていたんです」
「ふぅん」
興味なさそうに、再び盃に手をかけるが。
「伯符様って月に似ていますよね」
「はぁ?」
手を止める。
親し気すぎる、と老家臣達が余りいい顔をしない呼び方をした為ではない。言葉の意味が良く理解出来なかったのだ。
いきなり何を言い出すのかと周瑜の顔をまじまじと見るが、その表情にはいつもと同じ、柔らかな微笑みが浮かんでいるだけである。
ちらりと、煌々(こうこう)と輝く満月に視線を走らせる。
「……それって、最近俺が太ってきたっていう嫌味かよ」
やけに子供っぽい表情で顔を顰めた幼馴染みの心底辟易とした様子に、思わず周瑜は笑ってしまうが。
孫策の不貞腐れた顔の眉間に皺が寄ったのを見て、それを収める。彼とて主君を怒らせたい訳ではない。
「違いますよ。
雰囲気……ではないでしょうね。どちらかというと孫策様の性格は、月みたいな大人しいもんじゃないですよ。太陽といった感じですから」
「それじゃあ何だよ」
抽象的な言葉を理解するのは、孫策の得意なことではない。そんな様子を、周瑜は微笑んだまま見ている。
――母親のようだな。ふと、この同い年の幼馴染みのことをそう感じるが。甘えているという自覚がそう認識させたのかもしれないが、孫策は深くは考えなかった。
「うーん、私にもよく解らないんですけどね……同じ光でも、伯符様にはご自身自覚してらっしゃらない影があるのですよ。だからみんな安心するんです。
……太陽の光に全てをさらけ出しても平気な程、完璧な道を歩んで行ける人は稀ですから」
よく解らない。
体よく誤魔化されたような気がして、何となく気に食わない孫策は再び盃を煽った。
楊州の名家。三公輩出の名門。そんな周瑜に、何故陽の当たらない処を歩かなければならない理由があるのだろう。
訳が分からない。
そんな孫策の反応を気にすることなく、周瑜は再び視線を月の方へ移す。眼を細めて、どこか愛しげに。
「大体な、お前いつもそんな訳の分からないことばっかり考えてるから、得体の知れない奴だって徳謀達にいじめられるんだぞ、……おい」
「なんでしょうか」
返事はするが、視線は満月に固定されたままだ。ちっ、と一つ舌打ちをして、
「……俺が月だってのなら、お前はなんなんだよ、公瑾」
言ってからまた盃に手を遣る。
「水」
「は?」
「私は河で、空を映しているのかもしれません」
「……そこまで来ると、もう理解しようという気も起こらないな……」
溜め息を一つ。
「私も伯符様が理解出来ると思って話してませんよ」
「……こいつ」
腹が立つついでに、盃を……
「伯符様、いくら何でも先刻から飲み過ぎです。全く、人に喋らせておいてその隙に……という発想が幼稚なんですよ」
「ちっ、ばれてたか」
すかさず酒瓶ごと盃をとられ、渋々ながら諦める。
これなら他の部下の方が、遠慮がある分ましだったかもしれない。……そういえば、何故こいつを連れて来ようと思ったんだっけ?
だが、口に出したのは別のことだった。
「大体神経質すぎるんだよ、女の腐ったのじゃあるまいし……そうだ!」
「なんです」
嫌な雰囲気を察したか、周瑜がぎこちなく身じろぎをした。普段の流れるような挙措とは遠いそれは、目に新鮮に映る。
「お前、結婚しろ。俺も一緒にしてやるから。相手は橋家の美人姉妹。どうだ?」
「なっ……一体何でそんな話になるんですか?」
珍しく顔を真っ赤に染めて怒鳴る周瑜を、満足そうに眺める。普段叱られてばかりいるだけに、優位に立てたのが凄く嬉しい。
「大体、俺にだって子供くらいいるんだぞ。二十四にもなって、今まで独り身だったのがおかしかったんだ。うんうん、これで決まりだな」
「ちょっ、ちょっと待って下さい……伯符っ!!」
怒鳴った後で、慌てて口を押さえるが。
「……しっかり聞いたからな、主君を呼び捨てにしやがって」
孫策のにやにやした顔を、一発くらい殴ってやりたい衝動に周瑜は駆られた。
「伯符さ……」
「なんか、昔みたいでさ。すっごく嬉しい」
本当に他意なく嬉しそうに、満面の笑みを浮かべる幼馴染みの真意が解らなくて周瑜が戸惑っている間に。孫策は立ち上がると深衣の裾を翻し、大股に歩み去って行く。
「じゃあな。俺達の嫁取りについて相談して来る。こういう仲人みたいなのは子衡とか得意そうだよな」
「……それよりも、橋家は噂で聞く限りしきたりや家柄を大切にする傾向があると伺っておりますが。子綱殿あたりの方が適任ではないかと……」
「そっか?まあ考えてみる」
思わず反射神経ですらすら喋ってしまった周瑜が苦い顔をしていることにも気付かず――気付いてて嫌がらせをしているのかもしれないが、気さくに手を振ると、孫策は階下へと降りて行ってしまった。
後に残されたのは、呆然と立っている周瑜と、腕に抱えられた酒瓶と盃。
「全く……」
追いかけることを諦めると、周瑜は先刻まで孫策の座っていた場所に腰を降ろした。人肌の温もりが、衣越しに僅かに感じられる。なぞるように、繊手を滑らせた。
「……解らないのは、伯符の方だよな……」
外を見上げる。
白々と光る月。
あんなに近くにあるのに、決して届かないモノ。
「……結局、私は自分の水鏡に映った伯符しか知らないんだろうけど」
それでも近付きたいと思うことは。
「夜しか歩けない人間……か」
くしゃり、と歪んだ顔を周瑜は片手で覆った。
それでも――
今を幸せだと思うのだ。
「全く、度し難い……」
朱唇から洩れた声音が酷く満ち足りた響きを持っていたことは、月しか知らない。
「無題」……単に題を付けるのがめんどくさかったというわけではないのですが……。
唐代の詩人に李商隠という人がいます。彼には「無題」と題する詩が十五首以上も残っているのですが、そのほとんどが男女の愛情をテーマにしていることから、後世、恋愛詩のことを「無題」と言うようになった、と先日読んだ本に書かれていました。………。男女かどうかは別にして(……)、直接言うのが恥ずかしかっただけなんですね、単に。まあ「月影〜」であれだけ書いておいて今更、と言う気もしますが。ただ、この記述を読んで「おお!(笑)」と思ったのと、「無題」という響きが気に入ったので、この話を作りました。ただそれだけに三頁費やしたんですね、嗤ってやって下さい。
嗤ってやります(死)。つまりそーゆーことです。「月影哀歌」というのがこれの前フリ(つーかメイン)の話でした。
どうでもいいですが楊太「金の鏡 銀の夢」のプロトタイプがこれであるというのが、あからさまに顕わになっていて当時とは別の意味で恥ずかしさMAXですね……(自分では、「金銀」書いている時から自覚してましたさ……)。