(jian yong)
●ホントプロフィール
 旧名  耿雍(後に改姓)
 字    憲和
本貫地  幽州 
官位等  従事中郎→昭徳将軍

●ウソプロフィール
生没年  161(延熹四)〜223(建興元)年(両方ウソ。劉備と同じにしてみました)
血液型  B型



劉備軍きってのアウトローくん。劉備とは旗揚げ以前からの幼馴染みで、最も遠慮のない仲。
劉備相手でも足を投げ出しただらしない格好で応対、諸葛亮以下になると相手を立たせたまま自分が寝っ転がっていたというトンデモない性向の持ち主である。
劉備軍古参文官にありがちと言うか、得意技はおつかい。劉璋は彼のどこがめちゃめちゃ気に入ったりしたのだろうか……。その他劉備の出した禁酒令をウィットに富んだ遣り取り(やや下ネタ)で撤回させたりしている辺り、古参をかさに着たただの無駄飯食いではなさそうである。

ざっくらばんで自分に正直なアニキ。身なりに構わなかったり、口や態度が悪かったりで周囲の誤解を受けやすいが、本質的な所は間違わない、押さえるべき所はきちんと押さえた御仁。意外と気遣いが上手かったり。
関羽や張飛といった他の古参が劉備以外目に入らないタイプの奴らなので、済し崩し的に新入りの面倒を看たりしている。ので、結局人望が厚かったり。
苦難を笑い飛ばすこの人がいたから、負け続けの劉備軍も通夜イメージ一色にならないんだろーなー。
劉備が早い段階で捨てた陽のイメージを持ち続けた奴。二人揃って表裏一体みたいな。
文官トリオの中では糜竺が劉備命の奴なので、なんとなく孫乾と精神的にコンビ。口では誠意の無さそうな愛の言葉を吐いてたりするが、お互い結構真面目なお付き合いだったりする(手を繋ぐ程度の・笑)。

☆推奨カップリング
                              簡雍×孫乾


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  (mi zhu)
●ホントプロフィール
 字    子仲
生没年  ?〜220(建安二十五)年
本貫地  徐州 東海郡 
官位等  安漢将軍

●ウソプロフィール
血液型  A型

徐州で大規模プランテーションを営んでいた大富豪。家僕が一万人いたらしい(!)。
元は陶謙の別駕従事だったが劉備の徐州受け入れに尽力し、劉備の徐州牧就任後は臣下兼パトロンとして影日向なく仕えた。金銭と兵士を供給して貰ったおかげで、瓦解しかけていた劉備軍が持ち直したというから物凄い額だったのだろう…。
その功績か、入蜀後の席次は諸葛亮より上だったり。
自身だけでなく弟の糜芳も仕えているし、妹は劉備の側室に入っている。まさに一族一丸。
オリ設定では、糜竺と糜夫人が母親似で、糜芳が父親似みたいな。
外交得意の文官ながら、弓馬に優れた文武両道さん。

謎のセクシー美女(正体は放火魔 女神)とタクシー相乗りしても眼も合わさなかったエピソードがあるので「コイツ本物…?(汗)」とか思っていたら、ちゃんとご子息が居た。なんだ……じゃなくて、やれやれ;; 紳士的なだけでした。
しかしウチでは最初のイメージを大切にして、根暗でモノホンの受ということで(爆)。
パトロンの特権を振り翳すこともなく、言行は地味な文官そのものだが、気が付けば直ぐ傍にはべってたり着替えの手伝いをしたがったりする辺りがやや挙動不審。
妹を劉備の正夫人にしたいと裏で画策しつつ、同時にその妹に嫉妬してたりする。が、孔明参画以前の劉備軍謀略部門は玄徳自身が最高峰なので、文官どもは大したことは考えていないのが実情。

関羽の戦死の原因の一つが弟糜芳の裏切りだった為、自ら縄で縛られ断罪を乞うた。が、罰を受けなかったにも関わらず憤死してしまった。
この辺は文官の内部争いというか、糜竺らの徐州閥vs孔明擁する荊州閥+それに便乗した益州閥の政権交代の最終段階を示してるのではないかと思ったり。則ち孔明側の画策による失脚or暗殺。
糜芳は敗戦責任で殺されるとかの身の危険を感じたから呉へ亡命したのかもしれない(劉封死んでるし)。

☆推奨カップリング
                              劉備←糜竺


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  (sun gan)
●ホントプロフィール
  字    公祐
生没年  ?〜214(建安十九)年
本貫地  青州 北海郡
官位等  従事中郎→秉忠将軍

●ウソプロフィール
血液型  O型


通称「お使い乾ちゃん」。孫堅や孫権との呼び分けに苦労する以外(ウチでは乾は「けんちゃん」)大した個性のない文官。個性のないのが既に個性かもしれないが、そんな輩は三国志界にはゴロゴロ……。取り敢えずウチでは、のほほん人なイメージ。一見善人に見えて…と思わせて、本当に良い人だったりする。得意技は相手を煙に巻くこと。
劉備軍に居た所為で発揮されなかったが、実は知識豊かな学者タイプだったり。鄭玄学派っぽいので、盧植門下の劉備に仕えたのはそーゆー学者ネットワークによるものだろうか。孔融の推薦の可能性もあるが。

劉備が徐州牧になった時に招聘され、糜竺や陳羣と同期の桜をやっていた。積極的に劉備陣営に荷担していた糜竺と違って、陳羣とほぼ同じ境遇。しかしその後の流浪生活にも一緒についてきているので、何かしら人徳パワーに目眩まされるところがあったと思われる。
劉備を受け入れて貰うべく、袁紹のところや劉表のところへ使者として赴き、成功を収めてきた。特に劉表には気に入られていたらしい。結構名士ウケする、穏やかで威儀のある人品だったのであろう。なんとなくタマゴ顔イメージ。
劉備の入蜀後は糜竺に次ぐ、簡雍と同等の礼遇を受けた(やっぱりこいつらで1セット…)が、しばらくして死亡。まあこれは普通の病死なのだろうが、徐州閥としてはイタイ。

☆推奨カップリング
                              簡雍×孫乾


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