管理人 (以下梓) |
はい、ある意味サイトメインになるくらい頑張りたいと思います、検証番組「荀之死、その謎を追う!」。この度はゲストを二人お招きしての座談会形式で行かせて頂きます。 |
楊 (以下楊) |
それで何でコメンテーターが僕達なんです。そんな未来人のことなんて知るもんですか。 |
太公望 (以下太) |
それにおぬし、「何書いたって良いんだ、標はなくなったのだから!」とかほざきつつ今まで好き勝手やってたではないか。 |
梓 | ええそうですよー、駄文で展開してるのは歴史の道標がなくなった後の三国時代ですから、史実に反してようが何だっていいんです、荀の死もその内好きにやらせて頂きますよ! 今回取り上げるのは標がなくなる前の三国時代。なら、少なくとも太公望に関しては知らぬ存ぜぬ出来ないでしょうが。黙って従え! |
楊 | ちょっ……失礼な女ですね! |
太 | 放っとけ。どうせ年単位でシカトしておったわしらを書くリハビリも兼ねておるのだろうて。 |
梓 | ……………(図星)。 ま、まずは基本事項のおさらいから参りましょうか。 |
太 | ここを読んでいて知らぬ奴もおるまいがな。 |
梓 | うるさい。と、いうわけで正史荀伝該当箇所。 |
『三国志』荀伝 (※1) 「太祖の軍は濡須に至ったが、は病となり寿春に留まった。憂いによって亡くなったが、五十歳の時であった」
=病死or憂死 |
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梓 | 漢文しか手元にない時書いたから、このページ全部私の超テキトー訳。 |
楊 | これだけじゃ僕的には解らないんですけど。 |
太 | 建安十七年、西暦212年の話だな。この年曹操は配下の董昭らによる建義で魏公の位に就こうとしておった。その根回しの最中、荀に難色を示されて両者の関係がギクシャクとしてきたのだな。 |
梓 | やっぱり知っとるやん。 |
楊 | 師叔ですから!(ふんぞり返り) |
梓 | 何故あんたが偉ぶるよ。……そういうことですね。 そんな中で曹操が孫権討伐に出兵、その際ここ何年も本拠で留守番させるのが専らだった荀を帝の軍慰問の使者たる名目で呼び出し、そのまま自分の元に参軍させて……上の通り。ちくま訳では確か「憂悶のうちに死去した」っぽい記述だったかと。 |
太 | おぬしも確認してから喋れ。これが212年末のことで、年明け早々の213年1月、曹操は念願の魏公に就任しておる。 |
楊 | うわっ…!めちゃくちゃ胡散臭いじゃないですかその状況。 |
太 | うむ。皆がそう思ったのだろうな。後世この話は脚色されて膨らむことになる。 |
梓 | 裴松之の注に載ってるやつですね。これも最初は異説扱いでしたが。 |
荀伝注:『魏氏春秋』(※2)/『後漢書』 「太祖はに食事を賜ったが、開けてみたところ器は空であった。このことから毒薬を飲み、死んだのである」
=服毒自殺 |
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梓 | ウチのサイトではこれを称して「空箱事件」言ってます。 |
太 | 有名な話だな。 |
楊 | 僕、こっちの方なら聞いたことがあるような。でも含意が解り難い話ですね。 |
太 | 「お前など養う気はない」という曹操の意を汲み、絶望して自殺、という解釈が妥当かのう。 |
梓 | 上にある通り、范曄の『後漢書』は『魏氏春秋』説を全面採用。以降、現代に至るまでこっちが「真説」扱いです。演義だってこれですし、偶々見た民国時代の許昌県志にも堂々と空箱事件で明記してました。真面目な歴史書たる『資治通鑑』ですら以下の如く。 |
『資治通鑑』巻66 (※3) 「操の軍は濡須に向かったが、は病によって寿春に留まり、毒薬を飲んで死んだ」
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楊 | 本文・注の複合技と化してますね。既に。 |
梓 | 『資治通鑑』著者の司馬光曰く、 |
「の死は、操がこっそり誅殺したものである。陳寿は憂死したというが、判断の付けにくい問題であろう。今服毒自殺と言ったのは正しくないが、後世の人の恐れが隠れて誅殺したのだろうと言わせたのであり、この説を採用した」 (※4) =誅殺 |
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梓 | ぽいかんじ。 |
楊 | ぽいって……ああ、超訳だから自分の漢文能力に自信がないのか。 |
梓 | 放っとけ(図星)。 |
太 | これだと自殺どころか誅殺と解されておるな。 |
梓 | 上ので文意が合ってるか甚だ心許ないんですが、ぶっちゃけて言うと「曹操ならそーゆー陰険なことしかねないよね」とみんなに思われてる、という話ですか。 |
太 | ぶっちゃけ過ぎだ。 |
楊 | とはいえ間が良すぎますもんね。疑われても仕方ないと思います。 |
梓 | イイ線ついてますけど、その話は後回しで。次項も典籍の確認中心で参ります。 |
※1 荀伝本文(該当箇所)
「十七年、董昭等謂太祖宜進爵国公、九錫備物、以彰殊勳、密以諮。以為太祖本興義兵以匡朝寧国、秉忠貞之誠、守退讓之実;君子愛人以徳、不宜如此。太祖由是心不能平。会征孫権、表請労軍于、因輒留、以侍中光禄大夫持節、参丞相軍事。太祖軍至濡須、疾留寿春、以憂薨、時年五十。諡曰敬侯。明年、太祖遂為魏公矣」
※2 荀伝注
「魏氏春秋曰:太祖饋食,発之乃空器也,於是飲薬而卒」
『後漢書』は「太祖」が「操」になってるだけ。
※3 「操軍向濡須、以疾留寿春、飲薬而卒」
※4 「之死、操隠其誅。陳寿云憂卒、蓋闕疑也。今不正言其飲薬、恐后世為人上者、謂隠誅可得而行也」
管理人のアホ訳は信じないで原典or訳文にあたって下さい……。