暁のに捧ぐ


その日には、夕べの星も光を失い
待ち望んでも光は射さず
曙のまばたきを見ることもないように。(ヨブ記3.9)
 


第一章【前提激論編】その2.


確認って?
ぐあ!管理人を差し置いて初っ端に喋りやがったこいつ!
いいじゃないですかそれくらい!大体あなた師叔より失礼ですよ仮にも仙界教主に向かって!
……話を先に進めぬか?(疲)
そうですねっ
(可愛い子ぶりやがって…!)では、以下では歴代史家の荀観なるものを確認していきたいと思います。
それが荀の死因探求に関係あるんですか?
ええ。荀観というか、荀の政治的スタンスに対する考察ですけど、これを踏まえないと魏公就任の件で揉めた事実の解釈が違ってきますから。
就任に反対した理由、か。
その反対によって曹操が殺意を抱いたか否か。
……ああ、成程。
では以下、『漢魏文学与政治』を再編集(?)したスタジオ収録会談です。あ、勿論フィクションですので実在の人物(特に口調や言動)・団体・事件とは一切関わりがございませんよー。
空箱事件とも関係なかったら困るじゃないですか。
余程酷い超訳なのだな。
ぎく(図星)。ぶ、VTRスタートっ!!(焦)



司会者/孫明君(『漢魏文学与政治』中国、商務印書館、2003年)以下著者
主張1.曹操ヨイショ的立場から荀を魏臣と判断/陳寿(AD233-297)(今回欠席)
主張2.反魏的立場から荀を曹操の与党と批判/裴松之と同時代の論者(特定不能)、杜牧(AD830-853)
主張3.漢を正当とし、荀は漢の忠臣であったとする/裴松之(AD372-451)、范曄(AD398-445)、司馬光
     (AD1019-1086)

主張4.曹操を賞賛し、それに背いて漢に味方した荀を批判/趙翼(AD1727-1814)

著者 本日お集まり頂いた皆々さまには是非忌憚ないご意見をお伺いしたいと思います。
一同頷く。
著者 まずは皆様、『三国志』作者の陳寿氏は荀を「魏書」の家臣団筆頭ともいえるポジションで収録していますが、それに関してご意見あるでしょうか。
杜牧
俺ぁ納得出来ないね。そもそも荀ってそんな評価対象?
州の功績なんか漢の高祖や後漢の光武帝には全然敵わないし、官渡のことだって楚漢の攻防とは比べものになんねーよ。そもそも荀なんか曹操と一緒に漢から政権奪ったドロボウじゃねーの?(※1)
裴松之
ちょっと、聞き捨てならないですね!!!
貴方みたいな世間の馬鹿論者どもは、荀のことを魏に味方して漢を傾けたって言いますけど!晩年は考え直したんだからちゃんと漢臣じゃないですか!!(※2)むかぷん!!!
杜牧 あぁ?じゃあなんで曹操なんかに味方してんだよ。
裴松之 漢末の群雄どもって酷すぎですから!他のに比べれば曹操の方がまだマシ!!!味方するのも妥当です。滅びる漢に殉じるなんて、広く後世にまで伝えたくなる誠実さですよ!!!!(※3)
范曄
さんせーい。荀最高、めっちゃ素敵。
あーゆー人が悲運の死を遂げるなんて、運命って残酷やねえ。強い奴に帝を守って貰う為に曹操に味方したんやろうけど、究極的に漢を選んだから殺されたんやと儂は思う。(※4)
裴松之 もうホントそうですよね!!!なかなか真似出来ませんよ!!
司馬光 が曹操に仕えたのは、管仲が斉の桓公に仕えて尊皇攘夷を謳った故事に似てますね。荀も立派な政治家ですし。管仲は別に死にませんでしたが荀の場合は命まで漢室に捧げたのだから、ある意味管仲より偉いのではないでしょうか?(※5)
范曄 そうそう。
裴松之 ばんざーい!!!
著者 あの、皆さん落ち着いて……
趙翼 ……これだから旧人類は(ぼそっ)。
司馬光 (ぴくっ)私は比較的新しいと思いますが?
趙翼 比較的、だろう。揃って曹操政権を悪と決め付けているのが古い。
范曄 は?そりゃ悪いがな。漢から位を強奪した簒奪者やっちゅーの。
趙翼 しかし曹操は中国を導いた偉大な政治家だ。確かに荀も最期はあんな風だが、当初の行動だけ見れば甄城・范城を守ったり天子を迎え入れたり、かなり功績が多い。あれだけの頭脳を持っていて、何故漢に味方したのか……。(※6)
裴松之 それが良いところです!!!!!!!!!!
杜牧 っか、どっちにしろ賛美したくねえな。
趙翼 ……そういう司会者の意見は?
著者 ええと、一概には決められないと思います。魏に対する期待と、漢に対する愛着との間で苦悩して……


ぷつん。




あ、あれ?
はン、だからどうした。
ちょっ、VTRの途中じゃないんですか!?
これ以上続けても不毛です。
でも司会者、何か喋ろうとしてましたよ?
それはまた第二章で取り上げることもあるでしょう……(遠い目)。
それは構わぬが、別に対談形式にせんでも良かった気がするぞ。結局は四つの見解であろう。
ええと、荀を漢臣・魏臣のどちらと見なすかに加え、どちらの王朝を正当とするかによって荀の評価も変わってくるんですね。
はい、時代的には1→2→3→4になってます。とはいえ2と3は結構混在しながら喧々囂々言ってますが。
その中でも1→2間で魏から漢へと正統とする王朝が変化してるのは、
タテマエ主義?
も、ありますけど。1の書かれた西晋が魏の禅譲を受けた王朝だという前提に加え、2の発生した南北朝時代の漢民族は、北方の異民族に土地を奪われ、江南に亡命政権を作ってる状態だったのが原因かと。
蜀と自分らの境遇とを重ね合わせて、この頃から蜀漢正統論が出てくるのだったな。
南北正閏論でしたっけ、確か。
その南朝政権も元は西晋の系譜でしょう?自己否定っぽいですね。
だからこそタテマエ重視に流れていったのかのう。
3で弁護意見が出てくるのは、結局自分ら門閥貴族の出自である名士層の立場を誤魔化したいからですかねえ。どうせ実際の国家への忠誠なんてなさそうですし、魏じゃなくて漢に尽くした人もいたんだから自分達の手は汚れてない、みたいな?
それはどうであろうな。憶測が過ぎる気もするが。
じゃあ3→4の変化は?
近代に入って、中国は王朝主義とか伝統社会を捨てたタテマエですもん。儒教的な思想は嫌がられますし、曹操再評価に関しては、魯迅が褒めてるからってのもあるんでは?
それもタテマエなんですか………。
一朝一夕に本質は変わらんからな。
実際民衆レベルでは曹操嫌われっぱなしらしいですけど、現代中国の学者的には4の意見が大半らしいですよ。
民衆としては、京劇での悪役イメージが強いのかのう。
再評価といっても、生活とは関係のない机上の世界ですし、所詮。
……痛いこと言いますね、この架空キャラが(微笑)。
!!師叔、酷いこと言われました〜〜!!
史実の悪役官僚な楊と混同されるよりマシであろう?(平然)
めそめそ……(T_T)








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※1 『資治通鑑』に引用
之動魏武取州則比之高・光、官渡不令還許則比之楚・漢、乃事就功畢、乃欲邀名于漢代、譬之教盗穴墻発匱而不与挈、得不為盗乎?」
※2 『三国志』荀伝注
「世之論者、多譏協規魏氏、以傾漢祚;君臣易位、實之由。雖晩節立異、無救運移;功既違義、識亦疚焉」
※3 『三国志』荀伝注
「ケ豈不知魏武之志気、非衰漢之貞臣哉?良以于時王道既微、流已極、雄豪虎視、人懐異心、不有撥乱之資、仗順之略、則漢室之亡忽諸、黔首之類殄矣.夫欲翼讚時英、一匡屯運、非斯人之与而誰与哉?是故経綸急病、若救身首、用能動于嶮中、至于大亨、蒼生蒙舟航之接、劉宗延二紀之祚、豈非荀生之本図、仁恕之遠致乎?及至覇業既隆、翦漢迹著、然後亡身殉節、以申素情、全大正於當年、布誠心於百代、可謂任重道遠、志行義立」
※4 『後漢書』荀
「論曰:自遷帝西京、山東騰沸、天下之命倒県矣。荀君乃越河・冀、閑関以従曹氏。察其定挙措、立言策、崇明王略、以急国艱、豈云因乱假義、以就違正之謀乎?誠仁為己任、期民於倉卒也。及阻董昭之議、以致非命、豈数也夫!(中略)方時運之屯、非雄才無以済其溺、功高執彊、則皇器自移矣。此又時之不可並也。蓋取其帰正而已、亦殺身以成仁之義也」
※5 『資治通鑑』巻66
「斉桓之時,周室雖衰,未若建安之初也。建安之初,四海蕩覆,尺土一民,皆非漢有。荀佐魏武而興之,挙賢用能,訓卒万兵,決機発策,征伐四克,遂能以弱為強,化乱為治,十分天下而有其八,其功豈在管仲之後乎!管仲不死子糾而荀死漢室,其仁復居管仲之先矣!」
※6 『二十二史剳記』

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