偶然世界は諸行無常の夢を見るか
世界は陰謀で回っているや否や。それは永遠の謎ですけど。気付かずに素通りしてしまう有罪もあれば限りなく怪しいシチュエーションの無罪もあるわけで。
まあしかし、後世の人間が勝手に妄想想像するのも良いではありませんか。
……と、いうわけであずさ的的陰謀史観のご紹介のコーナーです。
眉唾な娯楽読み物として見て頂ければこれ幸い。
異論反論(あって当然だけど)お待ちしてまーっす☆
それに、少なくとも陳舜臣の『秘本三国志』(文春文庫)みたいに八百長と裏取引だけで世界が回ってる訳ではないと思いますしねえ……(苦笑)。←でも面白い♪
T.孫策の死
まずは気になるこの人から。
この人の謀殺説はあんまり見たことないんですけどねえ……。っていうか、元々暗殺なんですけど。
そういえばひとつありました、孫策謀殺。北方謙三の小説です。漁師の娘だと思って浮気してたら、曹操の放った刺客の回し者だったという話(馬鹿…)。ってゆーか、浮気はいけませんよ伯符さま。
その際身分を隠していた(つもりの)奴が名乗っていた偽名、『周策』(爆)。
コイツ、ほんとに馬鹿だ……。
孫策好き、周瑜好き、孫権嫌いの北方氏としては、曹操に警戒されるくらい物凄い人物として策を描きたかったようですが、その意図が達成されてるのやら。
しかも、あそこでは荀が首謀ですね……うーん(^^;)
孫策の死因について、現行の説をいくつか挙げてみます。
1. 狩の最中、許貢の食客に襲われて負傷、その傷が元で死亡(正史)。
2. @によって自慢の顔に大怪我をして、「こんな顔じゃ君主になれない」とヒステリーを起こして死亡(正史引『呉歴』←アホ)。
3. @による負傷の為絶対安静を言いつけられていたのに、于吉仙人なんかを相手にした所為で呪い殺された(『捜神記』及び『演義』)。
4. 計画的暗殺(北方)
ということで。どの説にしろ@の許貢の食客がからんでいるのは疑いないところですが、これには私も異存ありません。
では何故、孫策は襲撃されることになったのか。その検証と参りましょう。
許貢は元の呉郡太守でしたが、孫策は彼を殺してしまいます。それで、食客たちは復讐の機会を虎視眈々と狙っていた。それは確かです。では何故伯符さまはそのようなゴムタイなことをしたか。それは当時の情勢が大きく絡んでいました。
200年、北の国では何が起こっていたか。
そう、官渡の大決戦です。
当時曹操は、兵力において大いに勝る袁紹相手に苦戦を強いられようとしていました。かつての友が今は宿敵に!という萌えるシチュエーションは今はどうでもいいのですが、兎に角曹操は本拠地である許昌を長く留守にしなければならなかったのです。
孫策はそこに目を付けた。筋肉バカ江東の小覇王の目には留守を預かってる荀辺りはアウトオブ眼中だったことでしょう。曹操の留守、兵力も殆ど残っていない許昌を襲撃し、献帝を強奪して天下に号令をかける。
孫策ならば十分に実現可能な計画に思われます。南方でローカルに活動していた孫家が、中原に打って出、しかも天下統一を果たせるかもしれない。これはそういう千歳一遇の機会です。
当時の准水以南は、文化的に劣った地と見られていました。赤壁開戦前に他ならぬ周瑜が曹操軍を指して「中国の人」呼ばわりしていることからも、江東の地が中国扱いされていなかった事情が伺えます。天下を望むなら、どうしても中原を押さえる事は必至でした。
孫策は着々と許昌襲撃の計画を進め、周瑜は準備の為に巴丘(後に周瑜が死んだ地とは別←しかし同じ地名というのが暗示的・・・)へと向かいました。
ここで許貢が登場。
この孫策の大作戦ちょっと前、許貢はとある手紙を許昌に送っています。
曰く、「孫策を放置しておくのは危険です」。何か、不穏な気配を感じていたのでしょう。
そうです、許貢は曹操と癒着していたのです。
しかしこの手紙は孫策に発見され、孫策の詰問にバックレた許貢は怒った孫策によって処刑されてしまうのでした・・・。
犯人捜査をする際、真っ先に疑うのは第一目撃者・・・ではなく、その人物の死により最も得をした人物。
この場合曹操です。
孫策の許昌襲撃が実現していれば、曹操は本拠地を失くして帰る場所がなくなる。荀は捕まっちゃうし(←これはどうでもいい)、しかも帝を擁して戦うという官軍としての大義名分を失います。これは痛い。
遠征先で苦戦している最中、補給も出来なくなるし、味方が浮き足立ち敵が勢いに乗った結果、敗戦は必至でしょう。そもそも、なにがなくても官渡で曹操軍は勝てないというのが一般的な物の見方だったのです。
しかし、孫策が死んでしまい、恐るべき計画は頓挫した。その後の展開は歴史が証明しています。曹操は袁紹を下し、河北の覇者となります。それもこれも偶然起こった復讐劇によって。
・・・本当に偶然でしょうか?
あまりにもタイミングが良すぎやしないかい、というのが私の言い分。
しかも許貢は元々曹操陣営と誼を通じていたのです。使者の行き来はあっただろうし、曹操からのスパイが食客の形で入り込んでいた、或いはそこまでいかなくても、許貢死後もその遺族や食客たちと曹操陣営の人間が連絡を取り合っていた可能性は大いに考えられます。孫策暗殺は、曹操陣営の指示によって、タイミングを見計らって行われた暗殺劇ではなかったのか。
で、曹操陣営の人間、と思わせぶりに言ってますが、ここで人物を特定。
郭嘉です。
って、なんでそんなに自信満々なんだ(苦笑)。理由もちゃんとあったりして。
正史の郭嘉伝を読むと、彼の情報分析力と予言能力を讃えるエピソードとして、こんなのが載っています。
「孫策は江東を併呑したばかりで、殺害したのはすべて英雄豪傑、よく部下に死力をつくさせ得る者たちでした。それなのに孫策は軽く考えて警戒しておりません。百万の軍勢をもっていたとしても、野原の中をただ一人行くのと変りありません。もし刺客が突然襲ったならば、たった一人で充分相手になれましょう。わたしの観察によれば、必ず匹夫の手にかかって死ぬでしょう。」
これは、孫策の許昌襲撃を聞き知ってびくびくする人々に対して、郭嘉が予想して言った言葉。
この記述の後に、「孫策は長江を前にして渡らないうちに、あんのじょう、許貢の食客に殺された。」と続きます。
・・・怪しい。
まるで郭嘉は刺客の襲撃を知っていたかのようです。
この記述に対して、裴松之は注でこう論評しています。
「しかしながら、最高の智者でないかぎりは、その人の死が何年であるかを予知できるはずはない。今、ちょうど許を襲撃する年に死んだのは、それこそ偶然の符合であろう。
へえ、郭嘉は最高の智者じゃないんだ……じゃなくって。
偶然でそんなん断言できますかい!!それによって許昌の守備は気にしなくてもいいと自信満々で断言してるんだから、外れた場合命はないですよ。軽々しく言えることじゃない。
確かに具体的に何年に死ぬなんて誰にもわかりっこありません。首謀者以外は。
郭嘉が、許貢と連絡を取り合っており、その食客に指示して暗殺を実行したのではないか…という仮説が成り立ちます。
そもそも誰に言ってるんでしょうかね、これ。孫策の襲撃がバレバレということは、それなりの諜報部員だのを抱えてたり、報告が集まってくるくらいの人物…じゃないでしょうか。
曹操か、荀。
仮に郭嘉が暗殺首謀者だとして、報告を受ける義務のある主君である曹操と、許昌防衛の責任者である荀は承知していたと思います。ある意味共犯?
灯火が揺れる、深夜の密談。ニヤリと意味深な笑みで、「必ず匹夫の手にかかって死ぬでしょう」と荀の耳元で囁く郭嘉。
ああっ、毒……!
孫策ファンとしては誠に悲しむべき事態ながら、ダーティーな郭嘉の凄味(と色気)に思わずくらくらきてしまうあずさなのでした(死)。
っていうか、書きたいよう……。
毒、といえば。
食客の襲撃によって、孫策は顔と太腿に怪我を負います。そして、昼間は遺言を残したりしつつ、その晩に容態が急変して死亡。
その程度の怪我でそんなにすぐ死にますか?その場で出血多量な訳でもないのに。
AやBが眉唾な以上、他に何か要因があったとしか思えません。……武器に毒が塗ってあったとかね。
暗殺+毒殺。郭嘉らしいなあ…とか勝手に思い込んで納得していたり(苦笑)。