橋家の人々



ということで、予告していた二喬に関しての補足です。「月影〜」で書きっぱなしにしていたら、史実と勘違いしちゃう人も出てくるかな、と……。

そして、「ウソツキ」と一刀両断にされるのも哀しいので、理由のある嘘なのです、とここに書きたかったのです。(^_^;



まず二喬の父について。

二喬の父は、橋公と呼ばれる人です。これは正史に書いてあるので間違いない。『三国志演義』では喬国老ですね。

そして、戯曲の世界では、橋玄、という名が使われています。

橋玄とは後漢の大尉であった人。これは混同が起きたもので、橋公と橋玄は別人であるというのが一般的な物の見方です。

橋玄の生没年は109〜184。策瑜が175年生まれですから、当然彼らが結婚する頃には生きていません。年齢的にも、この人の娘であるなら、二喬は年食い過ぎということになります。

橋玄は、いわば曹操の父親世代の人。まだ無名時代の曹操の才能を認め、官界にプッシュしたのがこの人なので、曹操は後々まで恩義を感じ、進軍のついでにお墓参りをしたりもしています。

若き曹操を見込んだ橋玄は「わし亡き後は妻子を頼む」とまで言ってますが…もし橋玄が二喬の父だとしたら、演義で曹操が彼女達を引き取りたがってるのも正当な理由があるよなあ…とも思ったり(まああのオヤジはスケベ心ですが)。ちなみに、あの「二喬を銅雀台に侍らしたいby曹操」は演義の創作です。

橋玄の本籍地は梁国陽県。『三国志演義大事典』(潮出版社)では喬国老の原籍を廬江郡皖県にしていますから、出身地からして二人は違っていることとなります。

では何故私は敢えて嘘設定を採用したか。

その方が面白いから、というと身も蓋もありませんが(笑)。まあ理由はあります。

その一。橋公という呼称そのもの。

『公』というのは尊称であると共に、三公(後漢における最高位。司徒、司空、大尉)であった人に対する呼称でもあります。そして、後漢末に近いこの時代に三公の位にあった橋氏の人間は、大尉であった橋玄しかいないのです。

正史に出てくる人は大抵実名で出てきます。例外は、皇帝となった人のみ。太祖(曹操)とか先主(劉備)とか。その辺の人に、わざわざ敬称をつけて呼ぶ理由が知れない。

これは、正史を作った晋にとっては呉は外国なので詳しいことは知らず(陳寿は元々蜀の人だし)、元々あった資料を丸写ししただけとも取れますが。「橋公」と言えば「ああ、あの」と解る土壌が当時存在していたからだとは考えられないでしょうか。


その二。策瑜がわざわざ嫁にした理由。

二喬は、あそこまではっきり妻にしたと書かれているからには、正妻にしたのでしょう。しかし、孫策は少なくとも男子一人、女子三人の父です。先妻がいたか、妾がいたのかは知りませんが。不特定多数の女性と関係があったであろう孫策がわざわざ正妻にするからには、それなりの家柄であると思われます。

前述の『演義大事典』ではおそらく喬国老を皖県の小豪族の一人だと認識しているのでしょうが、果たしてその場合、孫策や周瑜が二喬を妻に欲しがるでしょうか?

当時、特に君主が正妻を決めるというのは政略結婚的な色合いや、そこまでいかなくても家と家の関係を求めて、という場合が多いのではないかと思います。

孫家と代々縁戚関係結んでる家は、愈氏だと思われますが。堅パパに限れば呉氏の人と。孫堅と呉夫人の結婚に呉氏の人達が大反対したというのは、孫氏より呉氏の方が家格が高かったからでしょうね。家柄が釣り合わないと。

しかし孫策は当時江南を制覇しつつある絶好調の時期。身分が釣り合わないと表立って難癖をつけるような輩は既に居ないでしょう。そして成り上がりだからこそ、結婚相手には身分高い相手を選んで「家格」とやらを高めたい意識が働く筈です。これは古今東西ありますね。成金オヤジが華族のお嬢様を欲しがるのと同じ原理です(嫌な例え…)。

実際、孫権は主筋に当たる袁術の娘を妻にしています。最初の奥さんは従兄の娘に当たる徐夫人ですが、性格的な折り合いは悪かった模様。袁氏は皇后になる話も出たのですが、子供が居なかった所為で結局はなれませんでした。

そして、孫権と周瑜の子供は、何重にも婚姻関係を結んでいます。孫権の長子孫登と周瑜の娘。周瑜の長子周循と孫権の長女孫魯班。周瑜の次男周胤も、孫氏の娘を妻に貰ってます。これは、孫権が周瑜をそれだけ頼みにしていたということと共に、三公輩出の名家である周氏との婚姻関係によって家格を高めようという理由もあると思われます。

そして話は戻ってきますが。大尉である、すなわち三公である橋玄の娘程になれば、政略結婚の相手としては申し分ないのではないでしょうか。

策瑜が二喬を捕虜にしたと思しき199年、同時に袁術の遺族も捕虜にしています。孫権と袁氏の結婚も同時期だとすると、袁氏の娘を弟に与えて正妻にされた大喬も、袁氏に負けない家格の娘ではなかっただろうか。……こういう推測が成り立ちます。

何故袁氏じゃなかったんだと言われると、それは姉妹を娶ることで周瑜との絆を深める為でしょうね。やましい意味はありませんが(笑)。


その三。橋玄の息子。

橋玄は前述の通り75歳で死んでる訳なんですけど、その時に末の息子が9歳だったと何処かで聞いたことがあります(どこそこに載ってた、と断言出来たら良いのですけど)。

ジイサン、元気!!……というのはどうでもいいのですが、それなら年の近い娘が居てもいいじゃないか、と。

年取ってから若い後妻を迎えたのだとしたら、寧ろ子供達の年が近似している方が自然でもあります。

そして、184年に9歳ということは、策瑜の一つ下……。充分おっけーです。

ちなみに、ウチでは二喬姉さん女房という世間に抗う設定をしているのですが、流石にジジイが死ぬ3〜4年前に子供は作れないかな、と……(笑)。

66歳が最終年齢ということで、三人が同母姉弟だということにしました。

当時としては結婚年齢が遅すぎるんですが、これは小説(モドキ)内で書いたように父を亡くした娘だということで。

あと、劉備に嫁いだ孫夫人も婚期は遅そうですよね。演義の記述を鵜呑みにすると、堅パパ死後の娘になりますし(死)。例えば旋風江設定なら、劉備に嫁いだのは24歳。これもいい加減に嫁き遅れですな…。

二喬は袁術の遺族と一緒に捕らえられているっぽいので、ひょっとして袁氏の誰かに嫁いでいた可能性もありそうですが。この設定だと、その方が自然ですね。袁煕の妻だった甄氏を曹丕が略奪したみたいな。

しかしそれだと元の旦那とかまた考えなければならないので、一応未婚だった、ということにしました。



こうして無事「橋玄でいいじゃん」根拠が揃った(?)ところで、何故彼女達が皖県にいたんだよという疑問の方をなんとかしなくてはなりません。

今与えられている材料は二つ。いち、二人は橋家の人である。に、二人は袁術の遺族や劉勲の家族と共に捕まった。

……袁術の部下に、というのがいたのです。演義にも一応出てきますがハッキリ言って端役のこの人、梓も最初忘れてて(というか覚えてる人がいるのか…?)、見付けた時は喜びました。っていうか、見付けたの、「月影〜」書き始めてからなんスけどね(死)。
袁術の武将。曹操が袁術を攻めたとき、寿春の県境で夏侯惇と戦って、
槊で突かれ討ち取られた。(『三国志演義大事典』より引用)
もうこれだけの人ですが(汗)。しかし正史読む限り、袁術陣営でも中心的な、力のある人だったようですね。孫策伝にも出てくるし、曹操の方でも、献帝が曹操の功績を述べた詔の中に名前が出てきたりしてます。

実は袁術の武将なんて、袁胤と紀霊しかいないと思ってましたが。そんな訳ある筈がないですよね、ごめんなさい。

……という訳で、二喬が橋の血縁者で、遺族として袁胤らと共に皖まで来るというシチュエーションは成り立つ訳です。

が橋玄と血縁関係があったかどうかは正確な所は不明ですが(汗)。しかし橋玄の甥である橋瑁が、劉の兄である劉岱に殺されていること、好き勝手に各地の太守を決めていた袁術と漢王室派の太守である劉が揚州の支配を巡って対立していたことを考えると、橋氏と劉の一族は、折り合いが悪かったようではあるようです。

ちなみに、孫策の公式デビュー戦はVS劉。なかなか因縁ですねえ……。





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