典常の愛 至上の恋
※以下、北方謙三の小説である『三国志』(角川春樹事務所)についての
ネタとも感想ともつかない考察です。
多量のネタバレが含まれていますので未読の方、
また作品を愚弄されることが許せない方は
ご注意下さいませ。
U.死が二人を別つまで。
そういう訳で、後編へとやって参りました(苦笑)。
まずはおさらいすることにします。
天下を狙う曹操の為に献身的に尽くす荀。利害の一致する二人であっても、帝に対する考え方だけは違った。
荀は、漢王朝の血統を侵すべきでない、権力を持たない権威としてシンボライズし、その下で曹操を実質的な覇者にしたいと考える。
それに対して曹操は、支配者の交代によって腐った血を入れ替えることが国にとって必要だと反駁し、自ら帝位を目指そうとする。
相容れない考えを持つ二人の対立は、日に日に迫っていた……というかんじですね。
この荀や、作中で劉備の抱いていた考えは、日本人が書いた小説だということを感じさせますねえ。
象徴的な存在としての天皇を戴く、日本ならではの考えだと思います。
私見としては、こういう権力がないけどエライ存在を中国が抱く可能性は、紀元前256年に秦がなんとなく東周を滅ぼした時点で潰えたのだと思いますが。天命による易姓革命思想が染み込んじゃいましたしね。
そういった対立がちょっとイタくなってくるのが、文庫で言うなら八の巻くらいかと見えます。
銅雀台が建った頃。
天下統一が成った暁に楽しむ為の建物だったのに、赤壁の敗戦後、その何を表しているのか解らない壮大で空虚な建物に住まなければならない。
宮廷より大きな建物を造る曹操に荀は難色を示しますが、実際その建物を一番醜悪に感じ憎んでいるのが曹操自身なんですよね……。
この辺は曹操が可哀相で堪りませんが。
銅雀台建設途上の七巻、荀が周瑜の病を報告した際の会話が、最後になる直接の温かいやりとりかもしれなく、胸に迫るものがあります。
「まず、周瑜の病を心配される。そこにつけこもうと考えられるのは、だいぶ経ってからになる。それが丞相というお方で、私はそういうところに魅かれ続けてきたのかもしれません」
「もういい。わかった」
二人で、手を汚すこともやってきた。権謀という点においては、荀も曹操に劣らないことをやってきた。しかし曹操は、荀がそれで汚れたと思ったことはない。
(本文引用)
なんですかこの初々しい熟年カップルは!!(泣笑)
この後に二人を襲う運命を考えると、痛々しくて泣けてきます……。お互い、過ぎる程に相手を労り合っているのに。
………………。
とうとう、決定的に二人がぶつかったのが、曹操に剣履上殿が許された時。
曹操は祝宴の場でいずれ冀州を魏国とし、自らが魏公に昇らんとする意思を発表したのです。簒奪の意思の表明であり、曹操自身そう思っての発言。
「年甲斐もないぶつかり方をした」と曹操は思う。
王室になる無意味さを説く荀に、「帝にならぬかぎりは」意味がないと断言してしまう曹操。
決定的に、何かが壊れた瞬間に見えます。
その時点は後味悪い程度でも、時間と共にじわじわと毒が回るような亀裂なのかもしれません。
それ以前、反乱を起こそうとした馬騰を帝の眼前で処刑しようとした時には辛うじて回避した緊張でしたが。とうとう身動きが取れなくなった瞬間は、互いの大きさからして必然であったのかもしれませんが。
曹操は、合肥への出兵に荀を同行させることにします。
意図は判りませんが、修復を図るつもりだったと見たい。合肥で周瑜置き土産の致死軍なる部隊に夜襲をかけられて、途中の寿春で病を得た荀が心配になって護衛の忍び集団を送ります。
………やぶへび。
荀の服毒自殺の報を受けたのは、合肥からの撤退を考え始めている最中。
曹操からの密かな護衛を監視と受け取って、そして曹操を魏公にするという朝廷の決定を叛意させることが出来ないと悟って。
「もうお互いの肚の内を見せすぎていた」から。
曹操は立ち尽くす。
殺すべくして殺したのだと思い、しかしなぜと思う。
一晩中、一睡もしない。居室から一歩も出ない。
そして、裏切られた、と思う。
北方版曹操の最大特徴といえば、人に対して「服従か死か」の選択を強要するところですが、荀ひとりだけは違ったというのです。
多くの死を見てきて、何故か荀のだけが心に重い。
大きく感情を揺らす二人の関係の、これがクライマックスの形でした。
残された絶望を胸に「自分はまだ生きるのだ」とのみ思うのです。
曹操には荀の気持ちは解りません。「怒りか、絶望か、諦念か、曹操に対する抗議か、それともまるで別の、支えきれないほどの人生のむなしさに襲われたのか」、推測するだけです。
……これは私見ですが、なんとなく『互いへの思い遣りが過ぎたが故の、熟年夫婦の悲劇』に見えます(苦笑)。
離婚調停中の夫婦が、未練たらしく復縁を望んでいる夫の提案でフルムーン旅行に出かける。
妻は夫の意図を知らず、人気の少ない山荘に連れて来られて「あの人は憎らしさの余り私を殺す気だ!」と勘違い、夫を殺人者にしたくない一念で自ら命を絶つ……そんな光景が目に浮かびました。妄想し過ぎ。
荀の意図は北方氏にしか解らず、作者もまた知らないのかもしれません。
死者は何も語りません。ですが、彼らの物語を読んでいてふと思いました。
荀は避けられない別離を前にして、主が苦渋の決断を下す前に自らのけじめを付けたのではないかと。
多分、関係修復は無理だったのではないでしょうかね。
このまま先延ばしにしていても曹操による処刑が行われたかもしれず、自殺の場合ですらあれ程のショックを受けるような人の手を汚したくないと考えた、優しさだったのかもしれません。
互いに、謀略にまみれながら、相手は汚れていないと信じ続けた二人なだけに。
その後、曹操は荀のことを口に出しません。内心で不意に思い出し、自分で打ち消すような。荀が居れば、と思いたくない。
忘れようとしているのかもしれないと、読者としては、やや曹操を薄情に感じたりもします。まあ、忘れられないからこそ無理に言い聞かせてるのかもしれませんが。
そして、まだ生きるのだと言っていた曹操も、死の時を迎えます。
倒れ、死を見つめ、側に控える夏侯惇に気がかりを漏らす丞相。
「私が死んだあと、丕が帝位を簒奪せぬか」
………………じいさん。
「私が公、王と昇ったのがよくなかった。丞相のまま、天下の統一を目指すべきであった」
ジジイ!!!!!(汗)あんた、そりゃ荀の言ってたことでしょーーーーが!!!!?
なんですかね、言いませんけど。どういうつもりか知りませんけど。
ひょっとしてめちゃくちゃ後悔してませんか?ずっとずっと考えてたりしましたか??
自分でも考えてない……と自己欺瞞して、読者も騙して、ずっと考え続けてたんじゃないでしょうかね。あの時どうすべきだったか。そして現在どうなってしまっているのか。
荀生前は避け続けていた対話をやっと交わして、そして、自分の意見の方を翻した。
何も書いてませんけど。
荀、Win!……というような単純な話じゃないですけどね。
結局、一方が死んだ後も、過ぎるくらいにお互いのことを考えていたのだと、そう結論付けてはいけないものでしょうか。
………愛だね、愛(泣笑)。