天下二分之計推論。



天下二分の計。それは、赤壁前後に明らかにしたと思われる周瑜の今後の戦略ですね。
孔明のプロデュースする天下三分にとっての最大障害要素。
劉備を荊州南部に逼塞させておいて荊州の長江沿岸を呉が押さえ、水軍でもって益州に攻め込み中国南半分を手に入れる。
で、西涼の馬超と同盟を組み、曹操相手に天下分け目の決戦。



……以前から考えて考えて考えまくってたことなんですが。
あれ、何時頃から考えてたんでしょうか。
そして、……ぶっちゃけて言えば、誰が発案者なのか。
色々説ありますけど、というか考えられますけど、悩みます。
本当の所は判る訳ないので、あくまでも自分的スタンス、ということですけど。
結構私の中の周瑜観や孫策観に関わってくる事項なので、色々考えて、一応結論出してみました。
一応、考えられる可能性として3つ挙げてみます。





孫策生前は全く思ってもみなかったけど、孫権に代替わりするに当たって新たな戦略を考えた。


弱点/・それなら何故孫策は劉表を攻めまくっているのか。
     ・保守派の孫権がそんな大きな戦略を共有出来るものか?
     ・孫権が孫策より上っぽくて厭。
     ・周瑜が薄情な人っぽくて厭。




孫策が発案。周瑜はそれに同意。


弱点/・孫策が200年に許都を襲撃しようとした計画と基本戦略が合わない。
     ・孫策の遺志を頑なに実行したがる周瑜が未練たらしい。
     ・孫権の立場がない。
     ・というか、私だって前の主の事だけを考えて申し出られた計略など了承したくない。
     ・孫策生前とかなり情勢が変わっているので、そのまま使えない。


……どちらも一長一短ですね。というか、周瑜が孫策・孫権という二人の主にそれぞれどういう感情を抱いていたのか。
対極的に捉えれば、上記二つの考えの対立という形になると思うのです。
しかし私は欲深なので、どちらにも整合性をつけたい。

で、第三の案。




元々周瑜が孫策に言い含めてた計画だったが孫策に邪魔され、やっと10年経って再開の目処が立った。

……自分としてはこれに落ち着いたのですが。

孫策が劉表攻めてるのって父の仇ということもあるでしょうが、そこまでねちこくて頭の悪い奴だとは思いたくないので、何か戦略的な意図があったと思いたいのです。
あんまりファザコンなのも、ねぇ?(苦笑)

そもそも孫家三代と言いますが、堅パパ死後は軍も空中分裂して、孫策は殆ど徒手空拳で旗揚げしなければならなかったじゃないですか。
家名も領地も名声もないハタチの孫策が2、3年であれだけの勢力を築けたというのは、孫策自身の戦上手もあったでしょうが、南方に目を向け、江南の地を平定するという基本戦略が秀逸だったからだと思うのですね。
南方はあんまり強い敵が居なかったからさくさく平定出来たという面があるのは否定出来ないんですが、だからこそあれだけの成果を手に入れたという点は評価に値するかと。

堅パパは中央に進出したいという志向が強いんですよね。反董卓連合入って洛陽一番乗りしたり、玉璽拾ったと言われてみたり。
南方の田舎者と言われたくない意図がミエミエで、だからこそ三公輩出の袁術に帰属してパシらされて、兄弟喧嘩の代理戦争みたいな対劉表戦で無駄死にするんですし。
孫権の代からは殆ど領地が大きくなってませんし(江夏くらい?)、呉の地歩を築いたのはローカル戦略の孫策だと思うのです。

そういう南方志向の観点から劉表攻めを考えると、荊州を獲って長江沿いに領土を広げ、更には益州……という意図がある風にも見えます。あくまでも南方で勢力を伸ばす、と。
孫策の手になれば、南方統一は河北が統一されるより早く済んだでしょうし。国力が河北の支配者と同等の場合、若い孫策の方が腰を据えられるだけ有利。


しかし、孫策は滅んだ袁術の領土が欲しかったっぽい。これは合肥に自ら攻めてった孫権も同じですが。この辺りは南方志向の計画と矛盾しますねえ。
そして、許都侵攻。これは孫策暗殺考にも書いた通り曹操倒しちゃえ計画ですが、曹操と対峙している袁紹は劉表の同盟相手。味方する訳ないと思われるのに、でも結果的にはそういう形に。この一事でも、孫策が劉表憎しの一念に凝り固まっているのではない証左になるかもしれませんが。
孫策には曹操を倒す勝機が見えてウズウズしちゃったのかと。元々勘とノリだけで戦争やってそうな奴ですし。そしてそれが当たるから怖い。

では、前述の方針は誰が考えたか、……いえ、孫策も考えたと思うんですが、部下の中でも強く推していたのが周瑜なのでは、と。
後年の周瑜の天下二分の計は、そういう孫家政権の長期的な方針に寸毫たりとも反していないんじゃないかと思うのです。
この場合暴走するのは主君側で、頑張ってる臣下側としたら「誰の為にやっとんねん、ムカー(怒)」とかになりかねませんが。


孫権の時代になっても、ある程度はこの考えが念頭にあったんじゃないかと思います。
甘寧の存在が、ですね。

甘寧は敵側の黄祖に仕えていた時期に、古参武将の凌操射殺してます。遺児の凌統が、甘寧が呉に仕えた後もことある毎に命を狙ってますし。
はっきり言って素行もおよろしくないこの男が味方の私怨を抑えてまで呉で優遇されたのは、彼が益州出身者だったからの可能性が高いのではないかと。この考えは一度でも甘寧のことに言及した人は必ず言ってるでしょうし、ここでわざわざ確認する必要性もないのですけど。
甘寧自身、益州奪っちゃいなさいみたいな天下二分の計を孫権に披露していた筈ですし。最大のセールスポイントには違いないですね。
赤壁より大分前から、国全体の方針として「天下二分」はあるのです。

そして、甘寧を推挙し、揉め事起こす度に庇ってやっているのが周瑜と呂蒙。
後年、劉備に対して強硬派の姿勢を持ち、あくまでも荊州全土の領有を目的にし動いていた二人です。友誼だけでない思惑があったのでしょうか。
甘寧は合肥戦線で大分活躍しているので、優遇した元は取れてそうですけど(そういう問題か?)。


なので、孫権が魯粛の案を採って天下三分に向けて親劉備的な立場をとるというのは、今までの孫家の基本方針からすればとんでもないことだったように思います。
周瑜は自明の理とも言える話をしていて、孫権が突っぱねる。
……この時点で、呉が天下を統一出来ない事が確定したのではないでしょうか?

ある意味周瑜の死よりも痛恨でしょう、周瑜の策が展開出来ない時点で、孫家はあるべき姿を見失ったのかもしれません。





………………ということで、周瑜は女々しく孫策の考えてたことだけを守り通してた頑冥な奴ではなく、そして孫策がいたらこんなこと思いつかなかったですよハハハという訳でもなく、別に恋愛でない部分で終始一貫した方針を打ち立ててたのだということに、私の考えとしては落ち着きました。
悩みまくった割に、まとめてみれば全然斬新でもなかったので、まあ自己満足です(笑)。
事前に周瑜ファンの友人に「どう思うー?」とか尋ねたんですが、かなりあっさりと同意が頂けたりしたので。彼女曰く、「じゃ兄貴が墓場から出てきそう(!?)だしじゃあまりにあまり過ぎるし(苦笑)」。笑。
は多少周瑜を過大評価してるきらいはありますが、そんなに受け容れがたい話でもないでしょう。

なんですかねえ、策瑜支持者のクセに、周瑜に関しては女々しい受にはしたくないのですよ。
あくまでも武人ですもーん。乙女なくらいなら攻でも良いです(何!?)。
でも受がいい……。





三国志譫言の間に戻る