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☆董卓暗殺計画に絡めた荀疎開と対袁紹関係妄想創作。
第一次董卓暗殺計画メンバーは荀爽関係者多数ですが、そしてバレてる奴がメンバー総員とも限らない訳ですが、荀爽自身は参加してないのか。
知ってはいそうだし、当然協力求められたでしょうが、かつて李膺にへらへら暮らして保身考えましょうぜと忠告してる中庸志向な性格を鑑みると、参加はしてなかったのが実際の処ではないかと。逆に荀爽が抑え役に回っていたから、暗殺計画が進行しなかった…説。
そもそも何達や荀爽みたいな党人は、董卓政権以前は政治の表舞台から干されてた訳で(党錮は解除されてるから、しばらくすれば何進に呼ばれたかもしれないが)。董卓が嫌なら辟召を断れば良い訳で、董卓を逆に利用するくらいのつもりでいたと思うのですがねぇ。
- 荀は計画に参加……はしてない筈。とっとと逃げてますし、同派閥の人間が殆どでも、名士層全体では干されかけですし(まだ若いのでイジメは露骨に違いない)。彼の帰郷は、潁川が心配〜な以上に、自分が変な事態に巻き込まれるのを嫌がったのと、荀攸の関わってる暗殺計画が中途で発覚した際に潁川に居たら一族皆殺しの危険があると考えて、疎開を思い立った……と、オリ設定。
一応声かけつつも結局故郷の父老は見捨ててますし、立地的に危ないなあとは思いつつも、一族以外はそんなに身に迫った危険があるとは考えていなかった可能性があります。一族が素直に従ってるのは、荀爽辺りが発案だからかも。三公にもなると、自分では動けないでしょうから。
- 荀爽の死亡年月は不明ですが、演義では191年…というか長安遷都の後まもなく、となってたり。190年6月に急に司空が変わってるのが怪しいので(それ以降の行動不明ですし)、この時に死んだか、病がいよいよ篤くなって退任したかと想定。暗殺計画がその後は野放しになるであろうことから、ウチの設定では荀はあんまり長く潁川に留まると危険。
訂正:ご指摘を受けました(謝々!)。荀爽の死亡は190年5月です。慌てて中国古文献で検索をかけてみたら、『後漢書』献帝紀にしっかりと「夏 五 月 , 司 空 荀 爽 薨 。 六 月 辛 丑 , 光 祿 大 夫 拂為 司 空 。」の文が。いくら腐女のアホサイトとはいえ、調べれば簡単に判明することの調査を怠っていたこと、弁解の余地もございませんな…(-_-;) ただ払の司空就任が荀爽の死による欠員補充だという想像は正しかったようで、大きく読みが外れていなかったことには安心しました(苦笑)。
外れてたのは『後漢書』荀爽伝にしっかり「亦 與 司 徒 王 允 及 卓 長 史 何 等 為 内 謀 。」とあること……参加してんじゃないか(汗)。ただこの書き方だと王允と何も共謀してそうですが、何の計画がバレた後も王允は着々と暗殺準備進めてるので、彼らの計画はリンクしてないような気がします。荀爽はどちらの計画も親しく見聞きする可能性があった……というオチでいいんじゃないでしょーか。ま、『後漢書』の成立自体『三国志』より大分後ですしねえ。日時関係は間違いないと思いますが。190年に63歳死亡ということは128年生まれ……ということで、ウソ年表もこっそり訂正(笑)。
- 荀側の理由は「荀攸のとばっちりを受けたくない」でいいとして、では騎兵隊を差し向けて迎えに来た側の事情は如何。これを韓馥と袁紹の対立、汝潁間抗争だと見る意見もあります。韓馥は袁紹に対抗する味方が欲しくて、同郷の潁川士大夫を呼び寄せようとしたが、時既に遅く袁紹は冀州を奪い取り……、という話。まあ、私その意見には首肯致しておりませんが。
袁紹と韓馥が対立にも見える関係だったのは、反董卓連合結成まで。連合空中分裂後は、劉虞擁立計画など寧ろ両者足並み揃えて頑張ってるようにすら見えます。汝南と潁川も仲悪いと言いつつ、妙に結束が固いので有名ですし。これは寧ろ南陽が本拠の袁術に人材攫われないように、という袁紹側の意図ではないかとニセクロ様が唱えてらした意見に賛成。韓馥が身の危険を感じたとしたら、寧ろ袁術の同盟者の公孫。
あちらは191年4月の周昂vs孫堅・公孫越バトル前後を想定してらっしゃるようでしたが、今回の妄想設定では荀爽死後に長居は危険なので、ぐぐっと前倒しで190年秋くらいの疎開を想定。
そして同郷の韓馥が迎えに〜☆という方が名分は立ちますが、冀州へ行くには酸棗突っ切らねばならず、当時諸侯の残りカスでぐっちゃぐちゃに荒廃したあの地域を行くのはかなり泣ける事態です(^^;)ついでに白馬賊本拠も通り道らしい。……ので、いっそ河内に行く方が近いです、安全です(笑)。
地図を見る限り、潁陰からへ行くのすら急げば一月かからないよ…?レベルなのですが、河内の場合頑張れば三日で行けそうな距離です(言い過ぎ)。まあ軍馬とヤワヤワ民間人は移動速度も違いますから1ヶ月近くかかるのかもしれませんが。結構皆さん転戦してるみたいですけど、190年下半期は袁紹、まだ河内に居た筈。韓馥より先に袁紹と接触してたなら、荀とかが191年7月以前に袁紹に仕えてる理由にもなりそうです。
そして実は一時期(とゆーかタイムラグなく乗り換えてる可能性すら…)、袁紹駐留の河内で曹操と荀が会ってる可能性が発現。ネタになります、フフフ…。
- はい、ここで正史荀伝のおさらいです(笑)。「ちょうど冀州の牧で同郡出身の韓馥が騎兵隊をさしむけて、彼らを迎えにやってきたが、ついて行く者は一人もおらず、荀だけが一族をひきつれて冀州へむかった。ところで、(冀州では)袁紹がすでに韓馥の官位を奪い取ってしまっていたが、荀を上賓の礼によって待遇した。」
どう見ても191年7月に冀州。ということは5〜6月くらいに潁川を出発したという話になってきます。
……おいおい梓さんよう、この記述をどうするんだい、ああん?
うっ…、こ、このピンチを切り抜ける呪文は一つです!「腐女史の妄想設定だから」…は勿論ですが(爆)、更に一言。「正史って本人に都合の悪いことは書いてないらしーよ?」
陳寿の良心……というよりは紀伝体の手法なんでしょうが、敗戦や失敗談はその人の本伝中には書かず、他の人の伝でこっそり書いてたりするのが常の遣り口です。例を取れば、曹仁の対周瑜戦における敗北・撤退とか、陳羣の徐州における行動とか(これは後日ツッ込みたい)。
荀の場合、何故彼の疎開が191年7月である必要性があるのか。この場合大事なのは、「袁紹の冀州詐取には無関係」を強く主張することです。
だって荀一族が同郷の韓馥の招きに応じたという形式を取る以上、一時期でも彼らは韓馥の臣下。「知らなかった」んならまだしも、袁紹が韓馥から冀州を奪おうとするのを「黙って見ていた」なら、不忠者の汚名を着る可能性は充分ではないでしょうか。あまつさえ、韓馥を説得したのは実の兄弟である荀。荀自身、共謀したと思われても不思議ではありません。………既に匿われていたならば。
せめて、どうすることも出来なかったという論法に持っていくには、7月以前に荀は冀州にいてはならないのです。本当にいなかったのかもしれませんが(苦笑)、疎開が190年1月から191年7月の間でありさえすれば意味は通じますし、何より「潁川は戦乱に巻き込まれやすい」から帰郷・疎開を思い立った荀が191年4月における豫州の戦乱に巻き込まれたりするのは情けない(笑)。
ならばどういうスタンスにいるのが彼らしいか。ここまでも全部、荀爽や韓馥の人柄を想像することで設定を考えてましたが、またしても荀らしさを想像してみると、……傍観、かな、と。これは異論が多そうですが(苦笑)。
その後荀は、冀州を手に入れた袁紹から下にも置かぬもてなしを受けつつも、その器を見限って弱小勢力である曹操の元に身を投じます。義理よりも才能重視。そして袁紹にすらダメ出しをしたその眼力で、(後に)被害妄想の末トイレで自殺する程度の韓馥を高く評価することなどありましょうか?
荀は袁紹によって冀州に「派遣」されています、ということはこの時点で冀州にいなかった。荀一族が大体足並みを揃えていたとすると、荀以外は袁紹に随行せずとも、その勢力圏内で暮らしていた可能性は高いです。そして荀は韓馥に対して説得を聞き入れられる程度には発言権を有しているっぽい。韓馥と袁紹が運命共同体と化してから1年半が経っていることを考えると、韓馥の部下が袁紹の下で作戦に従事したり、袁紹の部下が韓馥の手伝いに寄越されたりといった、命令系統の混乱に繋がりやすいアットホームな状態が起こっていても怪訝しくはないかも。改めてどちらの味方をするか、去就定まらない層が他にも結構いたんではないでしょうか、沮授とか。韓馥自身が警戒心なく(陶謙的な打算もあり)冀州譲ってるのを見ると、かなり両陣営が仲良しなのが窺えます。
荀とすれば、敢えて韓馥に余計なお節介を焼く気が起きなかった、ということで、政権交代劇を黙殺。袁紹のことも高く評価していないので、積極的な参与もしてないと思うのですが……。
暗殺計画と絡めるなら、都にいる荀攸の安全の為に、反董卓連合メンバーに大っぴらに接近するのは拙いという話にも出来ます(笑)。袁紹が盟主になったことから、董卓は長安在住の袁一族を皆殺しにしています。その下の部下までに気を留める可能性は低くとも、それを契機に荀攸達の計画している密謀が発覚しかねません。故に声高に存在を主張出来ず、こっそり袁紹幕下で無為に過ごしていたとか。
……灰字で、暗殺計画発覚をこの近辺にしたがってるのは、まさにこの辺りから荀の活動が見られるから(苦笑)。内部のチクリによる発覚だったらしい(?)ので、冀州の件が直接の引き金でないことは確実ですが(……だから仮説というより妄想)。
- 荀が曹操の元に馳せ参じたのは、191年秋以降。袁紹の冀州入手以降で、曹操が東郡太守となった後です。この「後」というのが、実績やら名前やらを得るのを見届けてからおもむろに曹操に会いに行く荀のシビアさを示しているような気がするのですが(笑)。というより、荀に限らず、ランクアップの度に幕下の人数が増えてる気が……。主君側が出世に託けて新しい人材を辟召しまくってる(政権の規模が大きくなると人手も要るし)事情もあるかとは思いますが。
ですが、荀にしろ郭嘉にしろ、袁紹から曹操に乗り換えた才子は多い訳ですが、それが原因で両陣営が気まずくなることはなかったのでしょうか?全然袁紹が彼らのことを気にしてなかった可能性もありますが(その時点で見る目がない…)、他の一族が自分に仕えてる=一族に害となることを考えまいとの安心感があった、あるいは、曹操が自分の傘下にあるも同然の勢力なので、袁紹としては退職されたというよりは子会社に出向させたくらいの心持ちであった、というのが妥当な解釈ではないかと思います。敵側に人材が流出するんなら兎も角、部下の部下は則ち俺の部下(笑)。
郭図が郭嘉の親戚というのは各所で見かけますし、もう間違いないとすら思うのですが、袁譚配下の郭援って人が鍾の甥だと聞いて、コイツも怪しいと思ってます。そうなると、郭嘉と鍾は密かに親戚だということに……。荀家と郭家、荀家と鍾家、荀家と陳家、鍾家と郭家が縁戚、の構図。
とにかく、曹操は大喜び。タナボタで清流名士のホープが仕えてくれるというオイシイ話ですよ奥さん!しかし唯才主義の曹操は、その名前だけで荀来訪を喜んだ訳ではないと思われます。これは私の私見ですが、曹操は元々荀の才能を知っていたのではないかと。両者共に何から人物評価を受けた身。そして潁川は法家思想が強い土地柄であることから、法家思想を信条とする曹操が彼らから教えを受けたり影響を受けていた……妄想逞しくすればそんな可能性もあります。加えて最近河内で会った(かもしれない)し。ウチのサイトのオリジナル設定では荀10才くらいからの知り合いですが、まあこの場面が初対面ということはなかったでしょう。北方氏も旧知の間柄を匂わせていた(笑)。
- さて一方の長安暗殺組ですが、前述の通り発覚、御用。これがいつだったが解らないんですが、実のところ結構早かったと思い込んでいたのですよ(190年末くらい…)。しかしよく考えたら董卓が自分の身を害そうとした奴をそう長く生かしておく訳がありません……(汗)。王允の第二次暗殺計画が成功を見るのが192年4月。牢屋で囚人を生かしておくのは、精々半年が限度ではないかと思うのですが。捕まってしばらくして董卓死亡、みたいな言い回しですし(まあ疑ってかかれないこともないですけど)。
192年の1月に、とうとう恐れていた汝潁略奪の嵐が吹きまくります。この時捕虜となり、その後も長い苦しみの生活を送る蔡文姫の詩(偽作説有り)でも、地獄のような悲惨極まる情景が詠われています。
故郷を蹂躙された……だけで暗殺組激昂しそうですが、暗殺実行しようとして捕まったのではなく、計画段階でバレたという状況は、まだ実行組のどこかのんびりした精神状態を感じさせます。つーか伍瓊生前から計画してて少なくとも191年末まで唸ってただけというのは、トロ過ぎますよ士大夫ども。逆に、彼らの暗殺計画が腹に据えかねたからこそ、董卓軍はやり過ぎなくらいに破壊の限りを尽くした、ということかも。
発覚の結果何は自殺。一方荀攸は平然とゴハン食ってたという……(笑)。この二人しか捕まった記述がないのは、何が他の面子を隠したからかもしれませんね。董卓側も見切り逮捕だったから、荀攸殺しにくかったのかも(しかし、そんな遠慮をする男か…?)。裴注では異説として『魏書』の「人に頼んで説得してもらい許された」説を載せてますが、こっちが正しかったら年代特定意味ないなあ。
董卓死後の荀攸は一旦帰郷(治安悪そうなのに…)後再出仕、蜀郡太守になりたい主張が認められたにも拘わらず交通が断絶していた所為で、結局荊州でダラダラ暮らしてます。しかしこのおねだりは混迷を続ける長安から離れたいが為の口実っぽいので、荀攸的には益州に行けなくても平気の平左でありましょう。王粲とか、この時期長安を脱出した知識人は大抵荊州に疎開してますねえ。劉表ウハウハ。
斯くして、196年に荀からの推挙があるまで、人騒がせな荀攸は一旦歴史の表舞台から姿を消すのでした。
そういや荀爽と何が荀によって合葬されたのって、やっぱりそういうことなんでしょうか(……最後の最後で;)。