遠い哭礼 |
誰にも負けぬほど大きな声で泣くんだと、そう心に決めていたのに、ひとかけらの涙も出てこない。 ――あれほどの恩義を受けておきながら―― 独り泣いていない私は、泣きわめく集団にも奇妙な奴と認識されているに違いない。 人は私を、薄情な人間だと思っていることだろう。 自分でもそう思う。だって私は…… ……少しも悲しいとは思っていないのだから。 |
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動揺はしなかった。 「荀令君が孫権討伐の行軍中、寿春にて身罷られたそうです」 「……そうか」 思わしくない体調を押して軍に出立されたときから、予感があった。 その後、行軍から外れ寿春に留め置かれたと聞き、覚悟を決めていたのだ。 それでも、臨終の場に立ち会えなかったのが、心残りなのだけれど。 「それで、最期はどのように? 静かに逝くことができたのだろうか」 静かに尋ねた。尋ねることができた。 予測していた以上に、私は平静だった。 なのに。 「それが……」 知らせを持ってきた男は、視線を地に向け、眉をひそめた。 「どうした? 令君の容態が悪化し、寿春で療治を受けていると聞いたときから、私の覚悟はできている。構わない、言ってみろ」 「……病で亡くなられたのではないのです」 その言葉に驚く間もなく、彼は告げた、あの事実を。 ――丞相から空の箱を贈られて、意を察して、薬を飲んで―― |
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悲しみに暮れている人々を見ると、滑稽だと思った。 いったい何が悲しいのか、まるで理解できなかった。 凪いだ心から感情を引き出そうとすると、浮かんでくるのはただ…… ……ただ怒りだけだった。 |
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――荀令君は、丞相の魏公就任に反対されていたから―― 口さがない人々の噂に上る。 ――丞相は、朝廷で力を持つ令君を、邪魔に思って―― ……そんな莫迦な! 私は知っていた。令君と丞相の絆がどれほど深いものなのかを。 ――丞相は、皇帝の位には就きたくないとお考えなのだ。 たとえどれだけの人間を敵に回そうとも、 自分だけは殿の味方でありたいのだ―― 丞相の考えを心から理解していたのが、他でもない令君だったのだ。 そんな令君を、丞相が殺す理由などない! ならば、丞相が贈った、空箱とはなんだろう? 箱については、何も判らない。 本当に空だったのかどうかすら。 箱の中を見たのは、令君ひとりだけだったのだから。 丞相の好む謎かけがしてあったのかもしれない。 それとも、2人にしかわからない、何かがあったのだろうか。 確かなのは、ただひとつ。 令君は、丞相から贈られた箱のために、死を選んだのだ。 おそらくは、絶望を感じて…… |
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葬列から離れて歩き出す。 私を不審には感じているだろうが、儀式の泣き声は止まらなかった。 令君の遺体は寿春にあった。 本人の還らない葬儀に出ることに、何の意味もないと感じていた。 いや、たとえ遺体があったとしても、泣けない人間など、この場にいる価値がないのだ。 遠ざかる泣き声を聞きながら、故人に想いを馳せる。 こんな私をもし令君が知ったとしたら、いったいどうお感じになるだろう。 きっと令君は、最期まで丞相のことを想っていたのだろう。 私のことなど、少しも思い出しはしなかったのかもしれない。 心の瞳が、ここにはいない丞相を映し出す。 立ち止まり、じっと見据えて問い掛ける。 令君を失った貴方は、いったいどうされるのですか? 間違いなく魏公には、昇ることになるでしょう。 望んでなどいない未来を、迎えることになるでしょう。 それは、いくら余命が短かったといえど、死ぬ必要のない人間を、死に追い込んだ報い。 ――丞相を苦しめるような未来など、令君は望んではいない!―― 心の片隅で、良心がささやく。 でも、そんなことは判っていた。 頭の中は、はっきりとしているのだから。 もはや怒りもどこかに隠れてしまい、私は何処までも冷静だと感じていた。 なのに、令君の望まぬ未来を見ているのは…… ……おそらく少しも私を思い出してはくださらなかった、貴方に対する当てつけなのでしょうね。 心の丞相の隣にたたずむ、もう一人の影につぶやいた。 |
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もう泣き声は聞こえない。 振り返り、冬も間近の寒空を見上げてみる。 それでも。 ……やっぱり涙は、一滴も流れなかった。 向き直って、再び歩き出す。 歩きながら、ぼんやりと考える。 枯れているはずのない涙は、いつ頬を流れ落ちるのだろうか。 素直に泣ける人々のことを、この上なく羨ましいと感じていた。 |
※あずさコメント
全然お世話していないにも関わらず、こんな佳品を頂けてしまう管理人は、いつか一生分の運を使い果たしてしまうことが確実です……。
蒼天荀の死に触発された作品とのことですが、謎の主人公などオリジナル要素が強いらしく。
淡々とした描写から、主人公の憤りや寂寞とした心理が伝わってきますねえ……。うぅっ、令君〜〜っっ(涙)
謎の主人公氏が誰なのかは、管理人と一緒に皆様想像してみて下さい。
冬野様、素晴らしい作品を有り難うございました。
……感無量です。切ないです。
日頃から冬野様の博識に甘えまくりの管理人ですが、これからもお相手して頂けると幸いです。