遠い哭礼
 
 
 
 誰にも負けぬほど大きな声で泣くんだと、そう心に決めていたのに、ひとかけらの涙も出てこない。

 ――あれほどの恩義を受けておきながら――

 独り泣いていない私は、泣きわめく集団にも奇妙な奴と認識されているに違いない。
 人は私を、薄情な人間だと思っていることだろう。
 自分でもそう思う。だって私は……

 ……少しも悲しいとは思っていないのだから。
 
 
***
 
 動揺はしなかった。

 「荀令君が孫権討伐の行軍中、寿春にて身罷られたそうです」
 「……そうか」

 思わしくない体調を押して軍に出立されたときから、予感があった。
 その後、行軍から外れ寿春に留め置かれたと聞き、覚悟を決めていたのだ。
 それでも、臨終の場に立ち会えなかったのが、心残りなのだけれど。

 「それで、最期はどのように? 静かに逝くことができたのだろうか」

 静かに尋ねた。尋ねることができた。
 予測していた以上に、私は平静だった。
 なのに。

 「それが……」

 知らせを持ってきた男は、視線を地に向け、眉をひそめた。

 「どうした? 令君の容態が悪化し、寿春で療治を受けていると聞いたときから、私の覚悟はできている。構わない、言ってみろ」
 「……病で亡くなられたのではないのです」

 その言葉に驚く間もなく、彼は告げた、あの事実を。

 ――丞相から空の箱を贈られて、意を察して、薬を飲んで――
 
 
***
 
 
 悲しみに暮れている人々を見ると、滑稽だと思った。
 いったい何が悲しいのか、まるで理解できなかった。
 凪いだ心から感情を引き出そうとすると、浮かんでくるのはただ……

 ……ただ怒りだけだった。
 
 
***
 
 
 ――荀令君は、丞相の魏公就任に反対されていたから――

 口さがない人々の噂に上る。

 ――丞相は、朝廷で力を持つ令君を、邪魔に思って――

 ……そんな莫迦な!

 私は知っていた。令君と丞相の絆がどれほど深いものなのかを。

 ――丞相は、皇帝の位には就きたくないとお考えなのだ。
    たとえどれだけの人間を敵に回そうとも、
    自分だけは殿の味方でありたいのだ――

 丞相の考えを心から理解していたのが、他でもない令君だったのだ。
 そんな令君を、丞相が殺す理由などない!


 ならば、丞相が贈った、空箱とはなんだろう?

 箱については、何も判らない。
 本当に空だったのかどうかすら。
 箱の中を見たのは、令君ひとりだけだったのだから。

 丞相の好む謎かけがしてあったのかもしれない。
 それとも、2人にしかわからない、何かがあったのだろうか。
 確かなのは、ただひとつ。


 令君は、丞相から贈られた箱のために、死を選んだのだ。
 おそらくは、絶望を感じて…… 
 
 
***
 
 
 葬列から離れて歩き出す。
 私を不審には感じているだろうが、儀式の泣き声は止まらなかった。

 令君の遺体は寿春にあった。
 本人の還らない葬儀に出ることに、何の意味もないと感じていた。
 いや、たとえ遺体があったとしても、泣けない人間など、この場にいる価値がないのだ。


 遠ざかる泣き声を聞きながら、故人に想いを馳せる。
 こんな私をもし令君が知ったとしたら、いったいどうお感じになるだろう。

 きっと令君は、最期まで丞相のことを想っていたのだろう。
 私のことなど、少しも思い出しはしなかったのかもしれない。


 心の瞳が、ここにはいない丞相を映し出す。
 立ち止まり、じっと見据えて問い掛ける。
 令君を失った貴方は、いったいどうされるのですか?

 間違いなく魏公には、昇ることになるでしょう。
 望んでなどいない未来を、迎えることになるでしょう。
 それは、いくら余命が短かったといえど、死ぬ必要のない人間を、死に追い込んだ報い。


 ――丞相を苦しめるような未来など、令君は望んではいない!――

 心の片隅で、良心がささやく。
 でも、そんなことは判っていた。
 頭の中は、はっきりとしているのだから。
 もはや怒りもどこかに隠れてしまい、私は何処までも冷静だと感じていた。

 なのに、令君の望まぬ未来を見ているのは……
 ……おそらく少しも私を思い出してはくださらなかった、貴方に対する当てつけなのでしょうね。
 心の丞相の隣にたたずむ、もう一人の影につぶやいた。
 
 
***
 
 
 もう泣き声は聞こえない。
 振り返り、冬も間近の寒空を見上げてみる。
 それでも。
 ……やっぱり涙は、一滴も流れなかった。


 向き直って、再び歩き出す。
 歩きながら、ぼんやりと考える。

 枯れているはずのない涙は、いつ頬を流れ落ちるのだろうか。
 素直に泣ける人々のことを、この上なく羨ましいと感じていた。
















宝物の間に戻る



※あずさコメント

全然お世話していないにも関わらず、こんな佳品を頂けてしまう管理人は、いつか一生分の運を使い果たしてしまうことが確実です……。
蒼天荀の死に触発された作品とのことですが、謎の主人公などオリジナル要素が強いらしく。
淡々とした描写から、主人公の憤りや寂寞とした心理が伝わってきますねえ……。うぅっ、令君〜〜っっ(涙)
謎の主人公氏が誰なのかは、管理人と一緒に皆様想像してみて下さい。

冬野様、素晴らしい作品を有り難うございました。
……感無量です。切ないです。
日頃から冬野様の博識に甘えまくりの管理人ですが、これからもお相手して頂けると幸いです。