しなやかな糸で体を覆う繭を生み出す東洋の昆虫のように、オーストリアは紡ぎ出した音楽によって自身の輪郭を形作る。
身体に馴染む四分の三拍子。扱い馴れたベーゼンドルファー製グランドピアノの、僅かに退色して象牙色となった白鍵を撫でる度に愛しさが胸を衝いた。この家を不在にしていた間も調律師が仕事に手を抜かなかったことは、満足のゆく音色が雄弁に語っている。多少のブランクを心配に思っていたが、架空の卵を温めるべく曲げられた指は概ね意のままに動いている。音の紡ぎ上げた繭の内部だけが、今のオーストリアの居場所である。
自分以外の人間が忙しなく家の中を歩き回る足音も、室内に飾ってあった筈の調度や貴重品が忽然と姿を消していることも。断りもなくプライベートな空間に踏み入ってこられることにもいい加減慣れてきた頃だった。入室時に形ばかりのノックをするのはイギリスくらいのもので、それとて最低限の手順を踏んでいるだけのこと。仮にこちらが立ち入りを拒んだとしても一顧だにせず、態度をより高圧的なものに改めるだけだろう。
扉の開かれる軋み、床を叩く軍靴の音を聞いてもなお演奏を中断しないのは、ささやかな抵抗、賢明さとは無縁の意地を張っているからだった。オーストリアの強い自負は己の演奏が片手間に消費されることを良しとしない。音楽を聴くに相応しからぬ不調法は当然咎められるべきものだったが、しかしどうだろう。彼らはオーストリアが音楽を聴かせるに値する者達だろうか。
背後から注がれる視線を意識しつつ、オーストリアは最後の小節までを一定のテンポで弾ききった。ペダルを上げ、最後の一音が空気の中に混じり合って消えていくのを見届けてから、鍵盤に添えた指をそっと膝の上に戻す。渋々振り返れば穏やかな笑顔を浮かべたロシアがそこにいて、オーストリアの視線に気付くとその真意を問うような風情で首を傾げた。オーストリアより背も高く体格も良いロシアだが、きょとんと瞬きする仕草はどこか幼子めいている。
「……何か用ですか」
自分がプロイセンなら無言で舌打ちをしただろうが、オーストリアは抵抗を放棄して素直に口を開いた。生まれつき戦上手な国でない自分は、相手の要求を呑んで頭を垂れることが結局は己の身を守る一番の術になり得ると、身に染みて承知している。
「うん。ピアノの音が聞こえたから。選挙の準備は大丈夫なの?」
「実務的なことは全部任せてあります、私自身はわりあい暇なんですよ。彼なら上手くやってくれるでしょう――あなたの推薦した方ですから」
「僕じゃなくて上司が決めたことだよ。でも彼がまだ生きててくれて僕も嬉しいな」
「それはどうも」
今月末には、オーストリアの今後を左右する上司達を選出する為の自由選挙が行われる段取りになっている。ロシアがそれを容認したのは、予想される結果に絶対的な自信を持っているからだ。現在の上司は各地方の代表者を集めた会議を開き、国内意見を予め取り纏めている。彼らの努力は、オーストリアの心を安定させることにも繋がった。
「近いうちに室内楽のコンサートを開こうと思っているんです」
「へぇ、オーストリア君らしいね」
「そうでしょう?」
感嘆を装った声音から透けて見える軽侮には気付かぬふりを通す。ロシアとしても対話の相手があまりにも浮世離れしていては、傀儡に仕立て易い一方で体調管理能力に不安も覚える、といったところか。現実逃避と思われても仕方なく、事実、オーストリアはこれ以上政治に関わるのは懲り懲りだと思っている。国の意を体現するものとして表舞台に立った時、常に誤った判断ばかりを下してきた自覚がある。
釘は刺したのだからすぐさま出て行けば良いものを、まだ言い足りないことがあるのかロシアにその場を動く気配はない。居座るなら聴衆が寛ぐ為のソファに落ち着けばどうかとも思ったが、敢えてオーストリアからは提案しない。いくら近くに佇まれるのが精神衛生上良くなかろうと、腰を下ろした所為でうっかり長居する気になられては困る。
「今のは誰の曲?」
「モーツァルトですよ。我が国の誇るべき作曲家です」
「ふうん」
自分から尋ねた割には興味のないことを隠そうともしない生返事を寄越し、しかし何を思ったかロシアは「そのコンサート、僕が行ってもいいのかな」と笑顔で言を継いだ。
「もちろん構いませんよ」
現在の彼我の立場からすれば、命令或いは通達に等しい。とはいえ、本気の言か単なる社交辞令であるか、オーストリアには察することが出来なかった。表情を伺おうにも、深く積もった大雪が元の地形を包み隠すのにも似て、鈍重そうな仮面の裏で常に本心を巧みに覆い隠しているのがロシアという国だった。かつてトルコやスウェーデンと敵対していたこともあるオーストリアにとってロシアが主要な友好国であった時期もそれなりに長かったが、250年以上の付き合いを経た今でも得体が知れないという印象の方が遥かに強い。
「えへ。ありがとう」
ロシアはにっこりと微笑んだ。
「楽しみだな。プロイセン君への良いお土産話にもなるね」
「――――」
オーストリアは返す言葉に詰まったが、その反応がロシアの思惑通りであることは疑いない。ますます笑みを深めたように見える、というのはこちらの被害妄想かもしれないが。
意味もなく長居する訳ではなさそうで安堵したと言うべきか、ロシアはすぐさま本題に入るつもりらしい。わざとらしい笑みを張り付けただけの表情からは伺い知れなかったが、選挙を前にして幾重にも念押ししたくなるほど、彼も存外焦っているのだろうか。だとすれば気味の良いことだが。
「こないだ日本君のお見舞い帰りにシベリアにも寄ってみたんだけどね、元気そうだったよ、プロイセン君。寒い寒いって随分文句言ってたけど」
「そうですか」
「ロシアが寒いのなんか当たり前なのに、ねぇ?」
言葉少なな相槌にも充分満足したのか、雑談を装ったロシアの口調からは勝ち誇る内心が隠し切れずにいる。オーストリアの口数が少ないのは、動揺のあまり舌が強張っているからだとでも思っているのだろう。
思う存分独占出来て良かったですねという嫌味が脳裏に浮かんだが、確実に嫉妬ゆえの負け惜しみと受け取られるに違いない。わざわざ口にしないのは自分を貶めてまで相手の機嫌を取る気が起きないからだ。
「僕達みたいな存在がそう簡単に死ぬわけないし、何年かしたら故郷に帰らせることになると思うんだよね」
国際法とか面倒臭いよね。ここ数十年は勝者として自国に都合の良いルールを作れる立場にいたくせに、軽い調子でロシアは外聞なんて無視したいのは山々だと言う。
「でもアメリカ君とかが煩そうだしね。シベリアじゃなくても、僕の家でみんな一緒に暮らせるなら満足かな。オーストリア君も嬉しいよね?」
彼の家もロシアになっちゃえば万事解決、と。嫌味でも脅しでもなく、心底それを信じ込んでいるかのような口調だった。演技でない保証もないが。
「プロイセン君も喜ぶと思うな。好きな人を弟と共有しなくて良くなるんだから」
「……それで、今度は私があなたと彼を共有するんですか」
「ちょっと昔に戻るだけだよ」
この程度の皮肉ならばロシアの許容の範囲内らしい。そんなことを慮らなければならない時点で、決して昔と同じ立場ではあり得ない。
「神聖同盟覚えてるよね。君が僕を裏切るまで、僕達三人ってすごく上手くやれてたと思うんだ」
ロシアがまだそれを根に持っていたとは知らなかった、と指摘すればさすがに怒るだろうか。オーストリアもプロイセンも、ロシアと対等な力を持っていた頃の話だ。
首を振る代わりに、オーストリアは五秒だけ瞼を閉じた。元気かどうかまでは判らずとも、あの殺しても死にそうにない男は今も命を繋いでいて、口を開ける状態にあるらしい。椅子に腰掛けていなければ、脚が震えてその場に立っていられなかったかもしれない。それさえ聞ければ充分だと思った。
「僕はね、君のことも嫌いじゃないんだよ」
「おや、初耳です」
「うん。僕に逆らわない国はみんな好きだよ。全世界がロシアになっちゃえば、余計な争いもなくて平和になるのにね」
「……そうですか」
本来なら不愉快になって然るべき発言だが、湧き上がったのはこの場で初めて感じる親近感だった。戦争を始めたばかりのドイツも似たようなことを言っていたからだ。地域の安定の為には強力な統一政体が云々。彼の若さをいとおしんで過ちを指摘しなかったのはオーストリアの罪だったろうか。欧州の広域を支配していた過去を持つオーストリアもかつてはその覇権主義を信じていた一人だったが、あくまでもそれが強国の理論に過ぎず万人に受け容れられぬものだったことを、民族自決という名の刃を向けられた時に初めて知った。
どんな綺麗事で取り繕おうとも、国の本能は自己愛と支配欲を忘れられない。無邪気に願望を口にするロシアは素直で、それだけ己の力に自信を持っているのだろう。しかしオーストリアの体をずたずたに裂いて力無き一小国に堕さしめた新しい武器は、いつの日か隙を見せた全ての強国に対して平等に牙を剥く。国々の自己愛ゆえに。
「そうですね。戦争はこりごりです」
どんな強い支配もいつかは覆される。だから今、目先の状況に囚われて共倒れになる訳にはいかないのだ。
ロシアは自身が自己愛の強い国であるがゆえに、自己保身や他者への愛情を投げ捨ててでもアイデンティティを保持したいという小国の本能を考慮出来ない。オーストリアにとっては最大の付け入る隙だった。
臨時の上司の努力によって、国内の政治勢力は既に結束しつつある。ロシアの傀儡たることを期待されて頂点に据えられた彼が米英仏の信頼を得るまでの道程は困難だったが、人間達は秘密裡に交渉を進めたし、オーストリアの屋敷を監視がてら出入りしている三人も好き勝手に振る舞うのは相変わらずだが、今後の世界情勢を踏まえて中欧の小国を懐柔する方向に態度を改めつつある。彼らの後ろ楯を得て自由な選挙は行われることになっていた。示される国民の意思はロシアを愕然とさせるだろう。
ロシアの属国になるなど論外の選択肢だが、オーストリアは西側の偽善者ぶった連中に心を許すつもりもない。精々哀れな被害者の顔をして復興の為の援助を引き出すつもりだが、これは正当な取り引きというものだろう。彼らの描く全ての悪をドイツに押し付ける世界観にも合致するし、加えて占領国同士の呆れるほどの不和。ロシアの手先にならないというだけで、その他の面々には感謝されて然るべきだろう。
オーストリアはどちらの陣営にも与しない。誰のことも愛さない。情に流されて常に誤った判断ばかりを下してきた過去を、今度こそ繰り返すつもりはない。
「じゃあ練習がんばってね。ロシアの作曲家もプログラムに入れてくれると嬉しいな」
「ラフマニノフのピアノ曲は私も好きですよ」
ロシアは満足そうに頷く。予定のプログラムに変更を加える気は毛頭なかったが、オーストリアはその勘違いを指摘せずにおいた。
「馬小屋にしなくて良かったでしょう?」
「馬小屋もそう悪いものじゃないよ、なんと言っても主のお生まれになった場所だしね」
「共産主義者は神を信じないのかと思っていました」
「神じゃなくて腐敗した教会を信じてないだけだよ」
それはますます気が合わなさそうだと考えつつも、教会権力と癒着して生きてきたオーストリアは一ヶ月後の未来とロシアの言う数年後に起こるだろう悲劇とを思った。
オーストリアがロシアのことをよく理解していないのと同じように、彼もオーストリアのことを理解していない。侮っているが、別の意味では買い被ってもいる。
プロイセンはよく承知している筈だった。オーストリアが卑怯な臆病者であることを。
その7の続き、その8にもやや関連?みたいな。
オーストリアさんが練習していたのは翌年制定(予定)の新しい国歌でした。この後、11月25日の総選挙で共産党は大敗北。中道右派の国民党が第一党に。ていうか中道左派の社会党(特にレンナーさん)が国民党と結託してソ連の傀儡化を拒んだというのが特筆すべきトピックですよね。政治思想より国内の仲間関係を重視してるのが墺国政治家で、近年でも自由党(極右)のハイダーさんの2008年の葬儀に全政党の幹部が列席してた話もありますし。
神聖同盟云々の話は、捏造設定1848〜1890年くらいの三角関係妄想設定を参照のこと。馬小屋云々は、楽友協会ホールが一時ソ連軍の馬房にされかかったというエピソードから。ていうかウィーンのソ連管理地区では「行方不明者や自殺者の割合が高く、危険地帯と認識されていた」ってネットで見かけたんですが……ひえー……。