先発隊と共に本軍に先駆けハイルブロンに到着したプロイセンは、様々な意匠の軍服や旗印でごった返す宿営地の一角に部下達を置き去りにすると、そのまま脇目も振らず本営の中央を目指した。指示を得なければ一歩も動けないような頭の弱い将兵は自軍にいないし、何より優先されるべきは彼の人の無事を確かめることである。
未だ戦闘は始まっていないと聞いてはいたが、予定より到着の遅れた自軍は行軍速度を常以上に急がせていたので、早馬の連絡に行き違いがあったとしても不思議ではない。ネッカー川の対岸に敵影は未だ見えず自分達が開戦に間に合ったことは確実であったが、東の丘陵から見下ろした陣地に翻る旗印の数は予想以上に少なく目に映ってプロイセンと部下の将校の首を捻らせた。それなりの数の部隊を斥候に割いているのだろうか。
耳にも目にも喧しい各国の兵達を押し退けるように単身プロイセンが向かった先には一際目立つ天幕が張られており、戦利品に由来するトルコ風のそれが全軍指揮官の鎮座する場所であった。督戦の為同行している眼鏡の同族も、不愉快なことながらその傍らに侍っている筈である。
垂布を巻き上げ開かれたままでいる出入口へと大股で近付いたプロイセンは、しかし不測の事態に仰け反る羽目になった。砲弾のような勢いで中から人が飛び出し、危うく正面から激突しそうになったのだ。外見は初陣間もない若者のようであってもその実百戦錬磨で鳴らしたかつての騎士国、無様に撥ね飛ばされる訳にはいかないと咄嗟に身体を捻って避けたが、相手も予想外の障害物に驚いたのだろう。急に立ち止まろうとしてたたらを踏み、結局勢いを殺しきれずにつんのめって地面へと転がった。
「……ポーランド?」
「げっ、プロイセン!?」
服装の所為ですぐには判らなかったが、尻餅を着いてこちらを見上げているツリ目は浅からぬ因縁ある隣国その人である。
「お前どう」
「おっ!お前なんか全然怖くないし!近いうちにお前ん家の首都ワルシャワにしてやるしー!!」
「あ?」
プロイセンを見て急激に顔色を悪くしたポーランドは、怯えたような態度とは真逆に口先だけは限りなく強気で挑戦的である。わたわたと立ち上がると鋭くプロイセンを睨み付け、呼び止める間もなく裾を翻して逃げるように走り去ってしまった。ように、というか本気で逃げ出したのかもしれないが。露骨に不審な態度に眉を顰めたプロイセンは追いかけるべきか一瞬迷ったが、引き続き天幕から現れた四、五人の兵が慌ててその背を追っていったので、心配はなさそうだと思い直す。あの軍服はザクセンの家の兵だ。
「なんだありゃ……」
「おや、プロイセンですか?」
「よぉ」
潜った瞬間は薄暗く見えた空間も、目が慣れればさほどのものでもない。総司令の老人の姿は見当たらなかったが、プロイセンの目当ての人は清冽さ際立つ白の軍服を身に纏い、地図や何やらの散乱するテーブル越しの一際奥まった場所にぼんやりと佇んでいる。
隅に固まって何やら密談の体であった将官数人がプロイセンを見て目礼を寄越してきたが、そちらは無視して直接オーストリアの元へと足を運んだ。距離を縮めるほどに観賞用の存在としか思えなくなる、野戦場よりハレムにでもいるのがお似合いの生っ白い顔である。心なし不機嫌そうな仏頂面は音楽に触れられぬ環境の所為かと、身近なフルート狂の例を思い出してプロイセンは一人合点した。
「オイゲン公なら陣内を視察中です。到着の報告ならこちらでお待ちになるか、後から出直しておいでなさい」
「お前に言っときゃ大丈夫だろ?どうせ本隊が着いたらウチの王子さんが正式に挨拶に来るんだろーし」
面倒臭い指図を切って捨てれば、不快そうに溜息を吐きながらもオーストリアは了承の意を示した。先程までは、足元の木箱を椅子の代用にしていたらしい。その上に畳んで敷かれたマントは少々乱雑に皺が寄っていて、プロイセンはクッション代わりにそれを提供した持ち主の正体が気になったが、わざわざ問い糾すのも狭量に思えて目を背けるに留めておいた。多少はプロイセンに気を遣っているのかオーストリアは座り直すことはせず、テーブルの端に片手を置いて重心を預けた体勢で向かい合っている。
「つーかポーランドが何でいるんだよ」
「さあ……、ザクセンに質しても、いつの間にか輜重の荷車の中に紛れ込んでいたの一点張りで」
「いや、あんだけ目立つカッコしてる奴に気付かないって、どんだけうっかり揃いだよアイツん家」
「ですよねぇ……」
オーストリアもこの件には頭を痛めていたのだろう。悪態じみたプロイセンの感想にも、アルプスの高峰よりも高い常の気位を忘れたような素直さで力なく首肯してきた。
「今も本人から直接話を聞こうとしていたんですが、さっぱり要領を得なくて。あなた、古い付き合いなんでしょう?何を考えているのか判りませんか」
「女装して戦地に乗り込んでくる奴の気持ちなんか俺様に解るかよ」
今し方遭遇したポーランドは、何故だか知らないが貴族の娘が着るようなドレスを身に纏っていた。布をたっぷりと使って襞を作った、熟す前の若いワインの色をしたスカートは繊細な顔立ちの少年であるポーランドになかなか似合ってはいたが、化粧も施していない素顔を晒している以上知り合いが見れば一発で本人と特定出来るものであったし、如何せん肩にかかるくらいの長さで切り揃えた短い髪は本物の貴婦人にはあり得ない。
「変装してフランス軍に逃げ込むつもりかとも疑ったんですが、それにしてもあんな目立つ服装を選ぶ必要ないでしょうに」
「単に趣味じゃねーの?お前ん家にも似たようなの沢山いるだろ、イタリアとかハンガリーとか」
「こら、ハンガリーは最初から、」
「お前も一回女装してみたらどうだよ、絶対似合うぜ!こないだウチの王子のこと振った例のお姫さんとお揃いのドレスとか誂えさせて」
「お黙りなさい!」
八割方冗談で言ったプロイセンの目論見通り(ちなみに残りの二割は本音である)、オーストリアは眦を釣り上げてポコポコと怒った。ツンと澄ました無表情より、頬を紅潮させ声を荒げている時の方が、オーストリアは外見年齢相応かそれ以下にも見えて一気に可愛らしさを増す、とプロイセンは思っている。本当に幼かった時分はおっとり笑うだけで怒りを露にすることなどなかったので、面影を感じるという訳でもないのだが。
「……まあ良いでしょう。どの道こんな前線に置いておく訳にはいきませんし。送り返す手筈なら整えてますから、すぐにでも出発させるつもりです」
意外と沸点の低いオーストリアが、一方であまり怒りを持続させない気質であることを知ったのは、百年単位の昔のことではない。軽口を交わすことでそれを実感するようになって以来、とした方が正確だろうか。そもそもの理由が兵力目当ての打算であっても、上司の戴冠以来プロイセン個人への接し方も少しは変化したし、第一名目上では王国となったプロイセンの方が大公国であるオーストリアより格が高いくらいなのだ。気後れする必要など何処にもない。
「ん、それが妥当だな。ポーランドも言動から思うほど頭の悪い奴じゃねーけど、相棒のリトアニアが一緒にいねえならそこまで警戒しなくても大丈夫だろうぜ」
「まったく……、ただでさえ兵力に差があるのに余計な人手を割かせて……」
はぁ、と溜息を吐くオーストリアは実際かなり疲れているように見える。プロイセンの到着前からポーランドの独特な言動に振り回されていたのかもしれない。
「もしやそれが目的ではないでしょうね……」
「兵力、そんなに差ァあるか?こっちも五万動員してるだろ?」
「…………」
そういえば遠目に陣地を見た時から釈然としていなかったのだ。周囲を塀で囲み陣営を守るように重砲を配備し、完璧に防備を整えている様子に目立った不自然はないのに、何とはなし違和感が拭えない。自軍の遅刻の所為もあるだろうが、それにしても四万人の集団とはこの程度の規模であったろうか?
オーストリアはすぐにはプロイセンの確認に返答を与えず、瞼を伏せ気味にして卓上の地図へと一瞥を走らせた。紫水晶の瞳を覆い隠す長い睫毛に一瞬気を取られたプロイセンは、慌てて意識を切り替えて自らも地図を注視する。ハイルブロン周辺の地図もドイツ地域を中心に据えた欧州地図も疎らに書き込みが加えられているが、回答らしきものは載っていない気がするのだが。
視線を更に上へとずらせば、テーブルを挟んだ先にいた将官達の姿は既にない。自分達がポーランドのことを話している間に連れ立って席を外したのは、プロイセンに聞かれたくない向きの話でもあったからなのだろうが、別段興味はないので気にも留めていなかった。寧ろ二人きりという状況にこそ、不整脈を起こしかねない危険因子が潜んでいる気がする。いや、自分達は意識する必要も気後れする必要もない間柄の筈だ。
プロイセンの葛藤には気付かぬ体で沈思していたオーストリアもまた、己の葛藤に何らかの結論を出したらしい。一度外した視線を再び同族の紅い瞳へと据え直し、躊躇いを感じさせない存外はっきりとした口調でオーストリアは現状を告げた。
「あなた以外の諸侯国に割り振っていた二万のうち、実際に寄越されてきた兵は五千程度です。人間の部下だけ派遣して本人は姿を見せていない国も多いですね」
「………マジかよ」
兵の少なさが錯覚でなかったことには納得出来たが、感情としては納得出来ないことこの上ない。オーストリアの置かれた立場はプロイセンの想像していた以上に悪いものだ。
「斥候の報告によればライン戦線に動員されたフランス軍は八万人。我が軍二万、プロイセン軍一万と残り五千の帝国軍で何とか凌ぐしかありませんが……」
「チッ、あいつら対岸の火事だと思いやがって」
「あなただけが例外なのでしょうね」
しみじみと述懐されれば、当事者以上に動揺している己の態度が途端恥ずかしくなってくる。いや、オーストリアは国としての立場を指しているだけで、個人的な感情を指摘している訳ではないのだろうが。いやしかし。
「んなの当然、……同盟国だろ、俺ら」
視線をうろうろ彷徨わせつつも断言したプロイセンを尊重する、或いは肯定するように、眼鏡越しに見るオーストリアの眼差しはうっすらとした微笑を湛えている。
確かにオーストリアの言う通り、プロイセンは我が身の維持だけに汲々としている他の連中とは違う。王国という対等の立場を持ち、軍人王の下で多くの兵を養っている。自分だけが、オーストリアを助けることの出来る唯一の存在なのだ。何とも誇らしいことに。
「ふん!ちゃらちゃらしたナヨ男とその手下どもなんざ、この俺様の手にかかれば何万人押し寄せようと屁でもないぜ!すぐに蹴散らしてやるから見てろよな」
心からの信頼には程遠い社交辞令でしかないと承知していながらも、「頼りにしていますよ」という言葉はプロイセンを有頂天にさせた。第一自分とてオーストリアなど、そのお綺麗な顔以外全く好きではない。性格の悪さはよくよく承知しているのだ、他に好ましく思える部分などないに決まっている。
冷たい無表情との落差が大きいからこそ、オーストリアの微笑は恐ろしく蠱惑的だった。ただでさえ口元の黒子の所為で目に付く唇が柔らかく綻ぶと、ルネサンス期のイタリア絵画に似た謎めいた誘惑を感じる。同族特有の硬質な美貌にふわりと南の風が流れ込む度に、プロイセンはこの軟弱な国が自分より南方に位置していることを思い出すのである。
プロイセンが薄っぺらい肩を掴んでも抵抗はなかった。今のオーストリアは数少ない同盟国を手放したくないだろう。拒絶する筈がない。顔を近付ければ、至近で瞬く紫水晶の瞳はプロイセンの余裕のなさを揶揄するように笑いの気配を深め――、
「あっ」
目の前の体が傾いだ時、プロイセンは相手が土壇場で逃れようとしたのではないかと咄嗟に疑った。違った。苦痛の呻きを洩らし、左足首を庇うように手で押さえてしゃがみ込んだオーストリアを見て、ようやく理解した。
オーストリアの敵はフランスだけではない。
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