プロイセンは回顧する。
――初めて聞いた時は、何の冗談かと思ったものだ。
家族の呼称は名ばかりで、神聖ローマの権威を利用したオーストリアは帝国諸邦を自分の配下のように扱っていた。その帝国内に新たに国を作ることを認めるなど、あまりにも美味い話過ぎて俄かには信じ難かった。
かつての騎士団領たるプロイセン公国は確かに伝統的な帝国版図の外にあり、外国であるスウェーデンやデンマークも帝国内に持つ領地ゆえに諸邦の一員たる資格を持っている。諸邦の一人であるザクセンも、先日から上司の同君連合によってポーランドの国策に関与している。プロイセンが帝国外で王国を名乗ろうとも名目上は問題なかったが、外来の王国がドイツ諸邦の資格を手に入れるのと、諸邦の一つが新しく王国を建てるのでは自他の受け取り方が全く違ってくるのも事実だった。プロイセンの現領土は半分以上が帝国内にあるし、昔から己がドイツ人の国であるという意識を強く持っていたから尚更である。優雅な美貌とは裏腹の慢性的金欠病を抱えたオーストリアは、爵位や勲章、時には色仕掛けすら使って報奨金を払わず済ませたり借金を踏み倒したりするとんだ吝嗇貴族だが、今回の沙汰もそれと同じに考えて良いのだろうか。
話が具体性を帯び上司の代理でプロイセンがウィーンを訪れる11月になると、予想がほぼ当たっていたことは浮き足立つ宮廷の様子から容易に伺い知れた。少なくとも彼の国の上司は、兵力を供出させる代わりに金のかからない紙切れを発行したくらいの感覚でいるようだった。オーストリア本人はどうか。一人落ち着き払った様子の眼鏡貴族は本心を口にすることなどなかったが、ヴェストファーレン体制が確立して以降体調を崩している神聖ローマの看護を手ずからしているという噂のオーストリアが、更なる帝国の解体に繋がりかねないプロイセンの戴冠を歓迎しているとは思えない。
ウィーン滞在中は、久方ぶりにプロイセンも神聖ローマの家――今はオーストリアの家と言った方が正確な宮殿に寝泊まりしていたが、主であるオーストリアは積極的に客を持て成すこともせず、従って二人が話す機会はほとんどなかった。一度だけ、退屈な宮中舞踏会を抜け出し露台でうつらうつらと微睡んでいたプロイセンの元に、単身ひっそりとオーストリアが現れたことならある。
すっかり目が覚めたプロイセンは、すぐ隣に彼の人が佇んでいると意識するだけで全身が硬直して身を捩ることすら出来なかったが、オーストリアといえば常と変わらぬ不機嫌そうな無表情のまま、微かに届く華やかな喧騒にじっと耳を傾けているようだった。
「……今度の戦、確実に出兵して頂けるのでしょうね」
不意にぽつり、と独白のような呟きが聞こえ、プロイセンは「ああ」と裏返った声を出した。返答というより反射的に喉から飛び出しただけの音声だったが、特に問い返すこともせず小さく一つ頷き、来た時と同じようにひっそりとオーストリアは去っていった。短すぎる逢瀬は人目を避けたゆえだろうと察したのは後刻の話で、その時のプロイセンはじたばた騒ぐ心臓を宥めるだけで手一杯だった。念の為に抓った頬はリアルな痛みを伝えてきたので、あの一幕が夢でなかったと今でも自信を持って言える。
「……ッッしゃあ!!頑張って出世してやるぜーー!!」
プロイセンは夜空に向けて拳を突き出した。そうして、オーストリアの意図も人間達と同じところにあるのだろうと納得した。オランダ、ポルトガルを失い先日もフランスに敗北を喫したとはいえ、未だスペインは列強諸国の一角を占める。貧乏性のお貴族様は一度手にした覇権をみすみす失う気にはなれないのだろうと。
一見正鵠を射ているようで、実際は間違った想像だった。それから三年と少しを経た1704年にはそのことを思い知らされる羽目になる。
「おい、オーストリア!!」
その場にしゃがんだプロイセンは、目の前で蹲る人の肩を抱いて自分に寄りかからせた。もう片方の手を額に当てれば、驚くほど冷たいのに薄らと汗をかいている。今急に痛み出したのではなく、何食わぬ顔をしながらずっと耐えていたのだろう。青白い顔色も即席の木箱の椅子が用意されていたことも、オーストリアの体調を暗に示していたのにプロイセンは全く気付くことが出来なかった。
「だ、大丈夫か?」
「……あなたが動揺してどうするのですか、お馬鹿さん。少しバランスを崩しただけですよ」
あくまでも気丈に振舞うオーストリアは、しかし足を庇いながらプロイセンの助けを借り、ゆっくりとした動作で木箱に腰を下ろした。
「薬は処方して貰ってんのか?」
「人間のように治療で改善するものではありませんから」
「この位置は……南イタリアか」
十七年前の戦の時はこんな風にならなかったのですが。我ながらびっくりしましたよ。天気の話をするような調子でオーストリアは告げるが、その内容はプロイセンを更に焦らせただけだった。
腰掛けるオーストリアの正面に跪き、片方のブーツを脱がせたプロイセンは痛みを与えないよう慎重な手付きで足首を撫でた。気休め程度で、根本的な解決にならないことは百も承知している。プロイセンの白銀に近いブロンドの髪を、謝礼のつもりなのか小さい子供をあやすようにオーストリアが指先で梳かす。余人が見たら恋人同士の戯れと映るだろう。出ていった将官達が未だ戻らないことが残念だった。三十年以上前はまともに話すことも出来なかったのに、これだけ距離を縮めたのだ。誰彼構わず自慢したい。
「イタリア戦線にどんだけ回してる?」
「元々の守備兵の他に二万の増援を送ることにしました」
「少ねぇな」
十七年前の四ヶ国同盟戦争の時は、イギリス海軍が劣勢のオーストリア軍を全力でサポートしてイタリアを守り切った。当時のプロイセンはスウェーデンとやり合うのに忙しかったので直接見聞きしてはいないが、最近イギリスと親しくしているハノーファーから詳細を聞いている。今回のオーストリアは三方から敵の侵略を受け、特に南北のイタリア戦線では独力での防衛を強いられている。以前とは状況が違い過ぎた。
「――お前、イタリアの方に行って来い。こっちの二万も連れてけよ」
真剣な提案は、しかし一笑の元に切って捨てられた。
「お馬鹿。この地域を突破されれば私の心臓まで目と鼻の先なんですよ?離れられる訳が……」
「俺が行かせやしねーよ」
自分の頭に置かれたままだった白い手を取り、プロイセンはその掌に唇を寄せた。武器を取り慣れていない手は剣胼胝と違う位置が固く、楽器を扱う人間らしく指先が平らになっている。
「全軍指揮官がいねぇとまずいんだったら、オイゲンのじいさん一人残してきゃいいじゃねーか」
「そんな訳にはいきません」
「二万人くらい俺ん家で補充してやるよ。もっと沢山でもいい。今うちは八万の常備軍抱えてるし、お前ん家と違って国境に火種抱えてねぇから動かしやすいしな」
「結構です」
「……何でだよ!俺を信じろよ!!」
「あなたにそこまでして頂く必要はありません」
やんわりと、しかし有無を言わさずオーストリアは掴まれた手を振り解いた。
「ロマーノの世話をしてくれているトラウン総督も、イタリアの面倒を見てくれているダウン総督もいます。メルシー将軍もケーフェンヒュラー中将も己の分を尽くしてくれるでしょう。わざわざ私が赴く必要はありません」
オーストリアの態度は頑なだ。いくら有能な指揮官がいても、本国からの助けがない状態でどれほどの抵抗が出来るものか。プロイセンはイタリアから遠く離れているし、強力な海軍を持たないので南方に援軍を送れない。しかしこの地においては本国から増援を呼び寄せ、フランス軍を押し返せる目処も自信もあるというのに。
北の戦線を同盟軍に任せて、ただでさえ少ない兵力を南に全面投入すべきだという理屈を理解出来ないオーストリアではない筈だ。頷かない理由があるとすれば、それは私情によるものしかない。
「スペインにイタリア兄弟取られてもいいのかよ?」
「……っっ」
オーストリアはひゅっと、か細い音と共に息を呑んだ。隠し切れないその動揺がプロイセンの邪推を裏付ける。そんなもの確認したくもなかったが。
「そんなに顔合わしたくねぇ?これ以上憎まれたくねぇもんな?」
「……ぶ、無礼ですっ…、お黙りなさい!」
怒りを露にしながら、プロイセンを見下ろすオーストリアの表情は泣きそうに歪んでいる。
これは駄目だ、と思ったのは轡を並べて戦場へ赴いた1704年だった。
敵と対峙している自覚があるのかどうか、笑顔のスペインは「こないなってもうたわ、堪忍な?」と、あくまでもあっけらかんとした風情で戦斧を構えた。呆れたプロイセンが馬上のオーストリアを振り仰げば、軽蔑の表情でも浮かべているに違いないという予想とは真逆の、今すぐ馬から転がり落ちても不思議ではないほど動揺を露にした姿があった。――これは駄目だ。哀れで滑稽な同族に向けてか、同程度には滑稽な自分自身に向けてかは定かでないが、プロイセンは独白した。
衝撃と絶望で蒼白になった顔を見れば、この戦が打算と利己心ではなく伴侶への未練と愛情から起こされたのだということは一目瞭然だった。そして、相手が既に同じ思いを抱いていないと、この瞬間までオーストリアが想像もしていなかったことも。
あれから三十年。もうそろそろ忘れてもいいだろう、何度もプロイセンは思ったし、直接口にしたこともある。出来ることなら、忘れさせる役目は自分のものであって欲しかった。
こんなに高慢で陰険な、顔以外に取り柄のない、旦那に愛想を尽かされて捨てられるくらい性格の悪いお坊ちゃん、プロイセン以外の手に負える筈がない。事実から程遠い言い訳を、それと知りつつも何度も繰り返して、何度も萎えそうになる気力を必死で奮い立たせてプロイセンは三十年間を過ごしてきた。
「……っ、いつまでもうじうじ未練たらしいぜ。気持ち悪ィ奴だな」
込み上げる不快感のまま吐き捨てると、ぴしゃりと、先程プロイセンの髪を撫でた筈の手が容赦なく頬を打った。確かに言い過ぎた。想い人を傷付けたという反省はしかし、オーストリアの声を聞いた途端に吹き飛んだ。
「何を勘違いしているのか知りませんが、」
顔を上げてしまったことを後悔した。悲しみでも怒りでもない、底冷えのするような凍った瞳が、心底蔑むようにプロイセンを見下している。
「帝国外でこそ王国を名乗れていますが、本来あなたは私の監督下にある諸邦の一人でしかありません。侯国風情が余計な気を回さずともよろしい」
じんじんと痛みを覚える頬を、白い手が慰撫するように優しく撫でる。しかし喜びなど湧こう筈がない。
「私も兵も、ここから離れるつもりはありません。あなたは最近増長が過ぎますからね。ある意味フランスより信用置けない相手に、易々と大事なところを委ねられるとでも?」
「……それがお前の本心か」
「あなたの助力には感謝していますよ?」
縮まったと思っていた距離は、一方的な勘違いだった。いや、親し気な態度は打算ゆえだと最初から承知していた筈だ。そういう奴なのだ。傷付く必要はない。
足首は未だ痛んでいるだろうに、オーストリアは平然とした顔でブーツを履く。屈んだついでとばかりにしゃがんだままでいたプロイセンの額に口付けを落とすことすらした。喜べる筈がない……のに、かっと熱を帯びた己の浅ましい体を心底プロイセンは恨んだ。
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貴族に優しいプーが別人過ぎて、自分でも気持ち悪くなった……。
ポーランド継承戦争についての詳しい文献読まずに書き始めてしまったので、兵力何万人とかのデータは藤○ひとみ『ハプスブルクの宝剣』を参照。パクリじゃないもん、インスパイアだもん!!あとハイルブロンの地形はうぃきぺでぃあ先生に聞きました。宝剣にハイルブロンに4/25到着ってあったから、その数日後のつもりで書いてます。
しかし南伊戦線で墺軍がスペインに敗北するビトントの戦が5/25なので、4月末時点で墺さんの足が痛いかどうかは正直微妙。