プロイセンの悪態を聞いても、オーストリアの鉄面皮にさしたる変化はない。生意気な男を言い負かしてやったとでも思っているのか、作り笑いを引っ込めた同族は仕草だけは機嫌良さそうに指をひらひらと動かして架空のチェンバロか何かを数節演奏し、一段落付いたところでその手をゆっくりと長椅子の座面へ着地させた。
 そのまま立ち上がると、オーストリアは流れるような優雅な足取りで部屋の隅に垂れた呼び鈴のところまで歩み寄り、絹の組紐を引いて一階で生活している(らしい)使用人を呼び寄せた。今更といえば今更である。
 がらんとした屋敷も、当然ながら全くの無人という訳ではないのだった。もし件の相続人とやらが余程の吝嗇だったとしても、豪勢さで世に知られた叔父の別邸を無人のまま放置などすれば、一夜にして相続すべき家財の全てが目敏い盗人に持ち去られているだろうと理解していない筈もない。
 オーストリアが呼び鈴の元へと向かった隙に、プロイセンは目の前の座り心地の良さそうな長椅子へ遠慮なく腰掛けることにした。
 戻ってきた元の着席者は先程まで己一人が占領していた、今は余計な付属物の所為で狭くなった長椅子へと冷やかな一瞥を向けた。が、口に出しては何も言わず、プロイセンが空けておいた端の方に行儀良く腰を下ろす。
 程なくして現れた従僕へと、雇い主でもない癖に主人然としたお貴族は他者を指先で使役するのに慣れきった態度で客への饗応を命じた。ようやくプロイセンの馬に飼い葉と水が与えられ、西の部屋で寛ぐ国二人に対しては熱い珈琲と冷たいアイスクリームとが供されることになった。
 
 よく躾られているらしい従僕は、一つの長椅子に並んで、でありながら微妙に距離を空けて座る自国とその同盟者を見ても眉一つ動かさず、淡々とテーブルを用意し淡々と食器を並べた。お高く止まったこの国の連中のことだから嫌味ったらしく銀器でも出してくるのかと思いきや、黒色の珈琲がなみなみと注がれているカップも、果物を象って成型されたアイスクリームの鎮座まします深底の小皿も絵入りの磁器である。手に取ってよく観察すれば、東洋から輸入した本物に金彩や持ち手を加えて西洋風のテーブルウェアに仕立てた物らしい。公の趣味かオーストリアの好みか知らないが、確かにこれなら客への自慢にもなるだろう。正直食器類にあまり興味はないのだが、それが珍しい物かどうかの判別くらいプロイセンにも出来る。客が感心していることに気付いたのか、「本物の日本の器です」と得意気な声が横から寄越された。
 アイスクリームは好きだ。滅多に食べられるものではないから余計美味く思えるのだろう。アルプスの万年雪を体内に抱くオーストリアは、悔しいが冷菓作りに関しては他国以上に恵まれた環境にある。そして珈琲の、癖になりそうな芳醇な苦味。
「うんめぇ〜、ヴェネチア風だな!時代に遅れがちなテメエにしちゃハイカラなモン飲んでんじゃねーか」
 折角褒めてやったというのに、上品にカップを傾けるオーストリアは眼鏡越しにこちらをじとりと睨め付けてくる。
「馬鹿にしないで下さい。珈琲は先だってのウィーン包囲からの解放の際、敵軍の遺棄した物資から発見され我が国に広まった、我がオーストリアの戦勝を祝う愛国的飲み物です」
「…………」
 ウィーン包囲以前の十七世紀半ばには既にロンドンやパリでカフェハウスが店を開いている事実をすっぱり無視して、オーストリアはいけしゃあしゃあと与太話を吹聴した。涼しい表情からは今の台詞が本気か冗談か非常に判別し辛い。
「ちなみにクロワッサンの起源も私です」
「それ以上言うなよ余計嘘っぽいぜ……」
 オーストリアが鼻息を荒くするのも理由ないことではなく、若き日のオイゲン公を有名にした大トルコ戦争の輝かしい勝利も束の間、近年はバルカンでのオーストリア優位も随分と揺らいできている、らしい。この間からのロシアとトルコの喧嘩にも誘われていたそうだが、ポーランド継承戦争の真っ最中で到底東にまで関われる状態ではなかった。トルコの勝利は勿論、万一ロシアに一人勝ちされてもオーストリアとしては都合が悪いので、一応の休戦の成った今、そのうちバルカンにも多少なりと顔を出す心算でいるのだろう。
 しかし、西にもフランスやスペインという敵、東にもトルコという敵、……。
「にしても、お前って敵多いよなぁ」
「あなたに言われたくありません」
 他意なく発したプロイセンの呟きを一刀両断し、「これはイタリアが作った方が美味しいですね」などとぼやきながら、オーストリアは食べかけのアイスクリームを珈琲カップの中に投入した。
「うえええええおまっ、何してんだよ!?」
「珈琲に甘さが足りなかったので」
 オーストリアが銀のスプーンをくるくると掻き回すと、たちまちアイスクリームは融け出してカップの中身を得体の知れない濁色に変えた。プロイセンの一連の台詞に腹を立てたのだろうが、自棄になるにも程がある。
「オーストリア人は潔いのです」
「いや、意味わかんねえよ!?」
「ふむ、これは美味しいものですね。Eiskaffeeとでも呼びましょうか」
「え、マジ?」
 本当に美味いなら自分も試してみたいが、不味いのを我慢してこいつがプロイセンを陥れようとしている可能性もある。
(それはないな)
 大概性格は悪いが、オーストリアは妙な部分が愚直というか、人を騙すことが苦手な気質らしい。腕力はからっきしなのだから、他の部分で頭を使わなくては生き残れないだろうに。……まあ、確かに婚姻政策という形で頭を使っているようだが。
 途端に口にした珈琲の苦さが耐え難いものになって、プロイセンはカップをソーサー(微妙に絵柄が違うので、元はカップとセットになったものではなかったのだろう)の上に戻した。だからといってオーストリアの真似をしてアイスクリームを投げ込む勇気も出ない。
「……さっきの話の続き」
「はい?」
「お前、ここ出てった後はどーすんだよ。王宮に引っ越すわけ?」
「取り敢えず私の……いえ、神聖ローマの屋敷に戻りますよ。これまでも月の半分はそこで暮らしていましたし。休戦以来、スペインがロマーノに会わせろとしょっちゅう訪ねてきて鬱陶しいのが困りものですが」
「へえ……」
 後半の台詞は溜息混じりに吐き出された。何気ない口調を装って、しかしプロイセンを凝と見据えるオーストリアの眼差しは燃えるような怒りを湛えている。こんなところで愚痴るのではなく、本当はスペイン当人を詰りたいのだ、おそらく。プロイセンを見ている訳ではない。勘違いしてはならない。
 先の戦争はオーストリアに不利なままずるずると続き、決定的な変化の起こらないまま休戦が成立した。緒戦でロートリンゲンが陥落した後のライン戦線は膠着状態となり、プロイセンにも活躍の機会は殆ど巡って来なかった。最初は渋っていたオーストリアもプロイセンの助言を聞き入れる形で、フランス軍と一進一退を繰り返す北イタリア戦線に時折赴いていたが、結局南イタリアを奪還しようとするスペインの動きには何の手も打たず終いだった。
 今頃こんな風に怨めし気な貌を晒すくらいなら、あの時に逃げたりせず全力で抵抗していれば良かったのだ。こっちの方が余程みっともない。
「あいつとしょっちゅう会ってるんだな」
「それがどうしました?」
 御愁傷様、という言外の意が伝わったのか、反問するオーストリアの口調は刺々しい。……また殴られるだろうか、この間のように。
 しかしそんなプロイセンの予感は外れ、オーストリアは不意にがらりと表情を変えると、素材の鮮度を吟味する料理人のように眼鏡の奥の瞳を細めてみせた。
「……気になります?」
「別に」
 舌打ちすれば、「お下品ですよ」という口癖をすかさず寄越される。珈琲の中にアイスクリームをぶちまけるような変人に言われたくない。
「よく平然と相手出来るな、とは思うけどな。お前が今の上司と仲悪いのもスペインの所為だろ」
「そうですね、もちろん陛下のことはお慕いしておりますけれど。あなたの言う通り、黒衣を好みスペインから来た側近を重んじ万事スペイン宮廷風に振る舞うあの方を見ていると、あまり良い気分がしないのも事実です。私はオーストリアですから」
 怒り出すだろうと予想しながら口にしたのに、存外あっさりとオーストリアは上司との不仲を認めてみせた。自国の弱味にもなりかねない要素だろうに、オーストリアにとっては大したことではないらしい。確かに、当時のオーストリアの上司が夭折するまで、その弟だった今の上司がスペイン継承戦争における有力な王候補だったということは今更隠すまでもない周知の事実ではある。年を経た現在も、スペインの上司になるという夢を諦めきれていないらしいということも。
「それは……」
 でも、それはお前自身の未練を反映したものじゃないのか?
 あくまでも涼しげな表情で、プロイセンの食い入るような視線を気にせずオーストリアはカップを手にし、ゆっくりと甘い珈琲を啜っている。
 上司よりもオイゲン公を重んじていたオーストリアの態度は明らかに歪で、以前からプロイセンはそのことを疑い続けている。が、誇り高いオーストリアは決してそれを肯んじたりしないだろう。
 国の政体が君主制を採っている以上、国と上司の感情は相互に強い影響を及ぼし合っている。例外があるとすれば君主以上に議会の力が強いイギリスくらいのものだ。オーストリアの態度は単なる自己欺瞞としか思えない。スペインに対する浅ましい己の未練と執着を鏡のように映す上司の姿から目を逸らしたいが為に、わざと距離を置いて本心ごと見ないふりをしているだけのことだ。
 プロイセンも時にぞっとするくらい、上司はあからさまに国の心を映し出す。
 
 
 ――自国の若き王子も同じだった。
 彼の生活から温かい家庭を永遠に奪ってしまった責任が自分にあるのではないかと、プロイセンは忸怩たる思いを密かに抱き続けている。
 皇帝の姪に当たる名門の姫を妻に迎えても、彼は彼女の従姉妹である、一度も直接対面したことすらない姫への恋心を忘れることが出来なかった。流石に妻と暮らす新居に大っぴらに飾ることはしていないが、今でもマリア・テレジア皇女の肖像画を手元に隠し持っていることを、猜疑心の強い王子はプロイセンにだけ秘密にしなかった。フリッツは聡明だ。彼なりに何かを察していたのだろう。
 「彼女の何もかもを奪ってやろうなどとは考えていない」と、皇女の結婚の知らせを聞いた三ヶ月前のフリッツは言った。
「だが復讐するくらい構わないだろう?彼女は私の心を蹴飛ばして愛する男と結ばれたのだから、少しくらいの幸せを私の為に差し出すべきだ。そう思わないか、プロイセン?」
 ああそう思うぜ、フリッツ。
 プロイセンにはその感情が痛いほど理解出来る。同じ憎しみを抱いているのだから当然だ。決して手の届かない月を地面に引き摺り下ろしたくなる衝動を。
「目障りな父上とあの皇帝が死んだらすぐにでも兵を挙げよう。私は彼女の愛を得たいんじゃない。私のことを鼻にもかけなかったあの高慢な女が、地面に手を着いて私に懇願する様を見たいだけなんだ」
 ああそうだなフリッツ。きっとそうしようぜ。お前が身分に縛られて出来ない分も、俺が生っ白いお貴族のことを蹴飛ばしてやるからさ。
 小さなラインスベルク宮で、二人は秘密の約束を交わした。
 
 
 
 フリッツの心は悲しくなるくらいプロイセンと共鳴していて、そして三十年以上同じ場所で足踏みしていたプロイセンに、新たな指針を与えてくれた。
 ――復讐。
「……それは?なんです急に口籠ったりして、あなたらしくない」
「ん?…あー、いや。何言うつもりか忘れたわ」
「まったく……」
 プロイセンが肩を竦めて誤魔化せば、肩透かしな態度に毒気を抜かれたものか、苦笑するオーストリアは存外柔らかな空気を身に纏っている。
 ふと、今なら聞ける気がした。プロイセンがオーストリアの心を求めていない今なら何を聞いても構わないだろう。……どんな答えが返っても、きっと耐えられる。
「――なあ。スペインの何処が好きだった?」
「私ではなく、あの人が私を好きだったんです。間違えないで下さい」
 またそれですか。あなたも物好きなことですね。初めて口にした筈なのに、オーストリアはそんな台詞と共にプロイセン一世一代の問いを切り捨てた。
 つんと顎を反らしたオーストリアの態度は強がり以外の何物でもなかったが、それにしても、とプロイセンは自問する。自分への好意を示す相手を嫌う者は確かに多くないだろうが、好きと言われたから同じように好きになってしまうほど、人――自分達は国だが、そんなに心とは単純なものだろうか。
 世の中が本当にそうであったら、誰も失恋に泣いたりしない。全ての愛が報われるものであるならば、オイゲンのじいさんはフランスの地で生涯を終え、フリッツは今頃ウィーンに婿入りしているだろう。
 スペインに棄てられたことでオーストリアも簡単に想いを振り切っただろう、返されない愛に意味がないというならば。そうであれば自分も、……いや。
 プロイセンはフリッツの復讐に乗ることにした。だからそんな仮定はもう無意味だ。
 埒のない考えを振り払い、すっかりぬるくなった珈琲を一息に飲み干した。見れば、一欠片残っていたアイスクリームは皿の上ですっかり溶けて形を失っている。少しばかり勿体ないことをしたが、好物もこうなっては食べる気が起きない。
「……ごちそうさん」
「お待ちなさい」
 立ち上がろうとしたプロイセンのジュストコールの袖口を、くいと弱い力で引っ張られた。咄嗟のことに驚いて中腰のまま固まったプロイセンへと、長椅子に腰掛けたままのオーストリアが尻だけをずらしてじりじりと躙り寄ってくる。
「……なさらないのですか?」
 きょとんとした表情、僅かに唇を開いて見上げてくるオーストリアと目が合った。プロイセンの反応を揶揄するつもりですらなく、本心から意外と感じているらしいのがぱちぱちと忙しない瞬きからも透けて見える。
 ……畜生!!
 プロイセンは、自分がこのモラルに欠けた男を殴り倒さなかったのが奇跡だと思えた。細かく震える手を、拳をぎゅっと握ることで隠す。ゆっくりと深呼吸を繰り返していれば、瞬時に沸騰した血が徐々に元の温度を取り戻し冷えていくのを感じられた。大丈夫だ、こんなことは何でもない。
「馬鹿、じいさんが死んだばっかの屋敷でそんな気分になれるかよ」
 肩を押し返し冷然と告げれば、プライドを傷付けられたらしいオーストリアは心外さも露にムッと眉間に皺を寄せたが、プロイセンの言うことも尤もだと感じたのだろう、口に出しての反論はない。
「これからじいさんの墓参りに行くんだろ。それと荷造りしてたって言ってたよな。ついでにお前の家まで運ぶの手伝ってやるよ」
 自分でもぞっとするような猫撫で声を出して言ってやれば、それで納得したのだろう。たちまち機嫌を直し「たまには気が利きますね」などと偉そうに論評している。オーストリアにとってプロイセンなど所詮その程度の存在なのだ。深くその本心を慮るつもりにもなれない、路傍の石のような小国。
 甘えたように手を出してくるから、プロイセンは白い手を取って立ち上がるのを手伝ってやった。
 これも復讐の為だ。
 あと少しだけ我慢すれば、フリッツがこの不毛な日々を終わらせてくれる。そうして長年の鬱憤を晴らしさえすれば、こんな残酷な奴のことなど一顧だにせず明日へと歩いて行けるのだ、きっと。
 幸いなことにプロイセンはオーストリアと違い、人を騙し裏切ることに何ら痛痒を感じない性質を持っている。
 
 
 
 
 
 
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という訳で、恋の駆け引きを楽しんでいるつもりの貴族と、一々それに大ダメージ食らってるプーの図でした。多分どっちも鈍い。

個人的には、フリッツ親父がテレジア様のことを好きだったらしい…という伝説を擬人化国家に仮託したものが普墺の出発点ではないかな、という気がしています。この伝説って後世の人がロマンチックに膨らましただけの話で、実際は二人が未婚だった時に縁談が持ち上がったことがあるという以上の事実はないのだと勝手に思ってたのですが、カサノヴァ(1725-1798年、伝説のタラシ)の回想録の中に後年のフリッツ親父の寝室に娘時代のテレジア様の肖像画が飾られてるのを目撃した話が載ってるらしいので、ひょっとしたらマジ話かもしれない……。
親父は筋金入りのガチホモですが、極度のマザコンでシスコンでついでにオタク気質でもあるので、二次元(肖像画)の美少女に恋しちゃうくらいのことはあるかもしれないな、とは思います(^_^;)