※引き続き御本家未登場の捏造国家が登場します。ご注意。
ヨーロッパの人間は夏の太陽を熱愛している。7月のバニェビーチは、波打ち際で水と戯れたり浜辺で日光浴を楽しむ人々でごった返していた。
旅先独特の解放感もあって、異国からの客人達はより大胆な気分になっている。見目良い現地の男――クロアチアは、先程から何度か声を掛けられていた。華やかな色彩の水着を纏った若い女性達の笑顔は非常に魅力的で、地元の案内をして欲しいという誘いに普段なら喜んで応じるところだったが、生憎今のクロアチアは両手に冷たいスムージーと甘いロジャータをそれぞれ持っていて文字通り手が離せない。本命を待たせて寄り道する気は毛頭なく、営業スマイルを振り撒きつつも、クロアチアの心はまっすぐに想い人の元へと向かっている。
彼の人もこの景色を楽しんでくれているだろうか。眼前の海原は吸い込まれそうな紺碧の色で、日差しを受けて繊細なカットを施された宝石のようにきらきらと輝いている。
海岸のすぐ右手には、海上に浮かぶドゥブロヴニクの旧市街。切り立った岩壁は石積の城壁と相俟って堅牢な自然の要塞を作り上げ、揃いの赤い屋根瓦が海の青と鮮やかな対比を成している。アドリア海の真珠と謳われ、毒舌で有名なイギリス人も手放しで称賛するしかなかったクロアチアの美貌の源は、今も昔日と変わらぬ姿を見せていた。
中世の面影を残す街並みの中、屋根瓦の色が所々で鮮やかだったりくすんでいたりするのは先年の独立戦争で砲弾を受けた部分を修復した名残である。壁の彫刻の模様すら以前と寸分違わぬ形で復元してのけた人々の執念と愛情が、国そのものであるクロアチアには何よりも誇らしい。激減した観光客の数も紛争の終わった95年以降はゆっくりと回復していたのだが、この美しい景色をそのままの形で想い人に見せるのだという悲願が、クロアチアにとっては努力の日々におけるモチベーションになっていた。
大半の欧州人の例に漏れず、そして国土が海に面していないという事情もあって、オーストリア自身が海辺のリゾート地を好んでいるということも理由の一つではある。……だが、それ以上にクロアチアが自国の景観に拘っていた。
――なんて美しいのでしょう。あなたの瞳は海の色だったのですね。
確か1850年代の半ばだったろうか、オーストリアが最初にアドリア海を訪れた時のことだ。長年共に暮らす召使達の前でも常に硬い表情を崩さなかった人が初めて自分に微笑みかけた、あの日に感じた高揚をクロアチアはどうしても忘れることが出来ない。
転機は1848年、ヴェネチアにあるオーストリア海軍の軍港で水兵の大規模な反乱が起こったことにある。オーストリア軍は翌年8月にはその鎮圧に成功したが、これまで海軍機能を委託してきたイタリア人への信頼感を完全に失ったオーストリア人達は今更ながら自前で戦力を整えようと決心し、アドリア海を挟んだ対岸、クロアチアの家に海軍本部を移転した。
それまで同じように召使いと呼ばれていても、自分達の間には生活を規定する暗黙の序列が厳然として存在していた。ドイツ系を除いた所謂下働き身分の中でも、特に非スラブのイタリアとハンガリー二国は屋敷の主であるオーストリアの身近に侍る権利を自然と手にしていて、クロアチアは親しく談笑する三人の姿を見かける度に妬ましさで胸を焦がしたものだ。
幾度かの衝突を経て、イタリアとオーストリアの仲は修復不可能なところまで悪化していたし、同年にはハンガリーも派手な家出騒ぎを起こしてやはり翌年8月まで喧嘩の状態が続き、屋敷内はどうしようもなく刺々しい雰囲気に満ちていた。重苦しい空気は、しかしこの状況を内心飛び上がるくらい喜んだクロアチアにとっては、目の上の瘤がまとめて消え去ってくれる好機でしかない。彼らが長らく独占していたオーストリアの側近という立ち位置、それどころかあの人を支える唯一無二のパートナーになれるかもしれないと、(今となっては笑い話だが!)当時は本気で期待したのだ。
なにはともあれ、1852年には新帝のまだ弱冠20歳の弟君の身柄をクロアチアは預かることになり、二年後には帝国海軍司令長官となったマクシミリアン殿下は精力的に己の任務に取り組んだ。伝統的に海軍を軽視してきたオーストリアも、トリエステはミラマーレ城で新婚生活を送る殿下のご機嫌伺いをするついでにプーラの海軍本部にまで足を延ばす機会が多くなった。方向音痴なオーストリアを案内する役目はクロアチア、殿下自身、或いはその二人ともが請け負った。
何の式典だったか、確か1857年にノヴァラ号が世界一周に挑んだことに関連してだったと思うのだが、白い詰襟の上着と赤いズボンの軍服を身に纏い、貴公子らしい優雅な美貌のマックス殿下の隣でぴんと背筋を伸ばしたオーストリアの立ち姿は一種超然とした気高さを放ち、夢のように美しかった。
海の紺碧と白の軍服が、誂えたように調和していたのを覚えている。二人は船上で潮風に吹かれていて、頭上のマリアツェルがふよふよと勢い良く揺れていた。オーストリアは泳げない人だったから揺れる甲板が段々と怖くなったのだろう、背後に控えるクロアチアを不安そうな眼差しで顧みた。
……何故あの時、自分は駆け寄ってあの人を抱き締めなかったのだろう。今しろと言われても出来ないのだから身分の壁があった当時は到底実行出来た筈もないのだが、あの時勇気を出して感情のまま振る舞っていれば、その後の歴史も少しくらいは変わったのかもしれない。
これからは俺がこの人を守るのだと、あの瞬間震えと共に感じた決意は本物だった。それ以前、以後のクロアチアが誠実なだけであったとは言えないが、少なくともあの一瞬の衝動だけは誰にも否定されたくない。
1859年に独立戦争を起こしたイタリアは本当にオーストリアの家を出て行き、オーストリアの関心はますます家内のことよりもドイツ連邦の養育へと注がれていった。そのドイツから1866年の普墺戦争で締め出された翌年には、オーストリアはよりによってあのハンガリーに、クロアチアが何よりも憧れてやまなかった唯一無二の伴侶の座を昨日までの召使いに与えてしまい、都合の良い期待は呆気なく打ち砕かれてしまった。
クロアチアが希望の象徴のように感じていた親愛なるマックスは1864年ノヴァラ号に乗って新天地へと去り、クロアチアが失恋したのと同じ1867年、物言わぬ骸となってこの地に帰ってきた。
……今となっては単なる夢の話だが。
うっかり追憶の世界に浸ってしまった所為でグラスが傾いているのに気付かず、うっかり飲み物を九分の一ほど溢してしまうという悲劇に見舞われたりしつつも、程なくしてクロアチアの目に朝方自分の立てたパラソルの姿が映った。ビーチの外れに近いその場所は波打ち際からやや離れていたが、その分混雑を感じずに済む。
内海であるアドリア海は波こそ穏やかであるのだが、この地域の海岸は切り立った崖や岩場が多く、実のところ海水浴に適した砂浜は数少ない。軍事防衛的には利点となる要素なのだが観光客のニーズに応えるという点では悩ましいところで、数の限られたビーチは自然と混雑しがちになる。
パラソルの下では、チョコレート色の髪の想い人がクロアチアの帰りを一人きりで待っている。遠目からは顔の判別など出来ないがこの自分が見間違う筈がない。全体的に白っぽいシルエットは谷間にひっそりと咲く山百合のように涼しげな気配で、さすが山国を体現している人である。クロアチアは逸る気持ちのまま、やや歩調を速めた。足の裏の砂がじんわりと温かい。
記憶の住人ではない現実世界のオーストリアは、パラソルの作る日陰にじっと座っている。大判のタオルを敷いたビーチチェアに背を預け、膝の上の雑誌に目を通すでもなくぼんやりと正面の海を眺める様子は、景色に見とれているようにも現状に退屈しているようにも、どちらとも解釈出来るような曖昧さだった。
「オーストリアさん!」
最初は怪訝そうに左右を見回したオーストリアは、数拍おいて人混みの中から元召使いの姿を見出し納得の面持ちになった。とはいえ、その頃には彼我の距離は男の歩幅で十歩もない。自国内とはいえ己はそんなに特徴のない容姿だろうか……すぐに気付いて貰えなかった内心の落胆を押し隠して、クロアチアは笑顔を作る。
「遅かったですね」
「すみません」
オーストリアの手の届く場所、チェアの傍らの低いテーブルにグラスとロジャータの皿を置く。寄り道もしていないし迷子にもなっていないので謝る必要はなかったかもしれないが、自宅の景色に見惚れてぼんやりトリップしていたのも事実である。
早速グラスを手に取ろうとしたオーストリアは(直接手渡しすれば良かったとクロアチアは少々後悔した)、中身を溢した時に表面に付着したスムージーのべたつく感触が不快だったのか盛大に眉を顰めたが、何らかの葛藤を経た結果目を瞑ることにしたらしい。一度手放しかけたグラスを優雅な手つきで取り上げ、もう片方の手でストローを抓むと上品に一口啜って、やんわり目元を綻ばせた。
「……美味しい。ご苦労でしたね」
「はい……!!」
このままごく近くから白い面を見上げ続けるのと、立ち上がって如何にも親しげにチェアの背凭れに手を置いたりしてその旋毛を見下ろすのと、どちらがポジション的には美味しいだろうか。中腰になって膝の砂を払いつつ葛藤したクロアチアが選んだのは、パラソルとテーブルを挟んだ隣のチェアに腰掛けるという無難過ぎる第三の選択肢だった。距離こそ遠ざかることにはなるが、正面からその全身をじっくり観察出来るのだと思えば、そう悲観するポジショニングでもない。
それにしても白の似合う人だと、追憶に突っ込んだ片足をそのままにクロアチアは感心する。
ビーチで寛ぐオーストリアの姿は珍し……いや、見るのは初めてかもしれない。ハーフパンツに近い形状の膝丈まである紺色の水着に、薄手のフード付き白パーカーを羽織った姿は海辺ではよく見るスタイルで、且つ露出という点でもそこまで目を見張る程のものではない。が、オーストリアに対して真夏でもきっちりと着込んでいるイメージを持っているクロアチアの目には新鮮極まりない軽装だった。
オーストリアの纏う白は、アルプスの万年雪そのもののような清らかで高貴な人品を象徴しているに違いない。前世紀の白と赤の軍服もよく似合っていたが、白を基調として随所に紫をあしらった女帝時代の軍服もまるでオーストリアの為にデザインしたかのようにぴったりとその身に馴染んでいた。
……この白パーカーを用意したのがあの邪魔者でさえなければ、もっと思う存分うっとり出来ただろうに。
「そういえばプロイセンは?」
「ああ……、遠泳に挑戦すると駈け出して以来帰ってきませんね。溺れていないとは思いますけど」
そもそも当初の予定では、ビーチに繰り出すつもりなどなかったのだ。水に不慣れなオーストリアは未だに泳げないままであるし、人混みの猥雑さを好んでいないことも知っているから、今までは海の見えるカフェテラスや貸別荘の窓辺などから景色を楽しんで貰うプランを立てることが多かったクロアチアである。今年もそのつもりでいたら、あの邪魔者が「おら、海行くぞ坊ちゃん!」などと騒ぎ出して無理矢理予定を変更させたのだ。最初からそのつもりなら、ビーチの一角をロープで区切るなりして大事な客人(プ除く)に窮屈な思いなどさせなかったのに!!
例のトランクにオーストリアの分の水着も詰めていたというのだから確信犯なのだろう。真新しい水着とパーカーを見てオーストリアは無駄遣いだとポコポコ怒っていたが、クロアチアとしてはプロイセンが服のサイズを把握していることこそが不快である。結局溜息混じりながらもオーストリアが海水浴に同意したので、仕方なくここに案内することにしたのだが……。
「明日はヨットでも出して、海側からこちらの景色を見てみませんか?」
「そうですね……素晴らしい眺めなのでしょうけど、小さい船なのでしょう?揺れた拍子に海に落ちてしまったらどうしましょう」
「大丈夫ですよ、そんなに波も強くないですし。俺がついてますからオーストリアさんに怖い思いはさせません!」
くすくすと笑うオーストリアは渋る口ほどには嫌がっていないらしい。契機がプロイセンの我儘だというのは癪だが、決まり切った慣習を飛び出した行動は、色々と目新しいことも多くてクロアチアも楽しい。オーストリアの初めての水着姿だとか。
「水着…ハッ!オーストリアさん、今から波打ち際まで行ってみませんか?」
「ええ?」
話の流れとしても不自然ではなかったと思うのだが、明らかに気乗りしない口調で問い返されてクロアチアは内心怯んだ。とはいえこれも、ちょっとだけ新しい二人の関係に進む為の試練なのだ。ここが踏ん張りどころに違いない。
「冷たくて気持ち良いですよ?いつもの服装なら革靴が傷んじゃいますけど、今日は足元もビーチサンダルですし」
「ですが……高波にさらわれて沖に流されたら……」
そんな事故、嵐の海岸じゃなきゃ滅多に起こりません。反射的に浮かんだ反論はすぐさま消去して、クロアチアは「俺がついてます!」と自信ありげに見える表情を心掛けつつ請け合った。
「折角新しい水着をご用意されたんだから、普段着でも出来るようなことしかやらないのはもったいないです」
「―――――!!」
伊達に長年一つ屋根の下で暮らしていた訳ではない。とっておきの必殺ワードを吹き込めば、がらりと目の色を変えたオーストリアは。
「絶対深いところには行きませんよ」
案の定、高圧的にも思える断定口調で譲歩の意を示してくれた。ちょろ……いや、素直な人である。
「ざわざわします」
恐る恐るサンダルを脱いで、素足を直に砂浜へと着けたオーストリアは、何か重大な秘密を明かす時のような神妙さでそう告げた。
「波が引く時に細かい砂が一緒に流されて、足下が動いてるみたいに感じるんですよ」
「……流されるんですか?」
「オーストリアさんは大丈夫です」
何せ、クロアチアがしっかりとその手を握っている。山育ちのオーストリアを安心させる為という名目だが、何を隠そうこちらの下心を満足させる以外の必然性はない。
サンダルが流されないようもう片方の手で回収しながら、クロアチアは幸せを噛み締めた。本当に波が届くか届かないか、という波打ち際をゆっくり歩いているだけだが、穏やかな海水の流れが足を撫でていく度、無意識のように繋いだ手にきゅっと力が込められる。旧主に頼られているという自覚は、それこそ肌のざわざわするような、筆舌に尽くし難い高揚と充足感を与えてくれた。
「あの、オーストリアさん……!」
「よう坊っちゃん!!」
――くそ。
今までどこにいたのか、目敏く自分達を見付けて乱入してきたらしいのは例の邪魔者「プロイセン!?」。
北方の血を感じさせる銀髪から滴をぽたぽた落とす男はオーストリアのパーカーのフードを乱暴に引っ張ると、――ああ、手を離してしまった!
「見ろよ、タコ捕まえてきたぜー!」
背中とフードの間に出来た隙間に何かを放り込んだ。
「!!?ッ…いやああああああああああああ!!!」
「オーストリアさん!?」
ばっしゃーん!
ビーチ中に響き渡るような悲鳴と共に上がる、盛大な水飛沫。暫く理解の追い付かないクロアチアは事態を茫然と見守った。プロイセンは被害者に負けず劣らずの大声で爆笑している。……え、タコ?
「気持ち悪っ、ひっ、取って下さいッッ!」
砂浜に尻餅を着いたオーストリアは背中の異物に余程の嫌悪を感じているのだろう、涙を浮かべながら嫌々と身を捩る。寄せては返す波はクロアチアの足の甲を浸す程度の高さしかなかったが、転んだ時に盛大に跳ねた水飛沫を浴びてオーストリアの全身はぐっしょりと濡れていた。
「ケーセセセセセセセセセ」
「誰でもいいから助けなさい!!」
「……………………」
体のラインそのままに張り付く半透明のパーカー越し、うっすらと透けて見えるのは、白い膚にうねうねと絡み付く軟体生物の黒ずんだ足……。
「………ッッ!!」
クロアチアはその場に崩れ落ちた。本当は助けに行きたい、羨ま……不届きな生き物を剥がしてげたいんです、心から!!
しかし生憎とクロアチアはマトモに歩ける状態にない。不自然に前屈みになってしまうのを今も必死で堪えているのだ。
「そらそら、これはどうだYO!」
「んんっ、そんなもの擦り付けないでくだ……あっ!」
パーカーの布地越しにタコの足を掴んだプロイセンが、脇腹を這うそれをぬるぬると動かしている。なんという卑劣な男だ。何よりオーストリアさんのあんな悩ましい声を聞いて何故平気でいられるんだ!?
プロイセン、恐ろしい男……!!
何とかクールダウンして助けに行かなければと思いつつも、悶え苦しむオーストリアから片時も目が離せない自分の正直さに絶望した。
己との戦いという名の試練に敗北したクロアチアは先日来の決意をますます強くする。プロイセンいつか殺す。でもよくやった。
前← ・ →続