夜の空気を嫋嫋と震わせていた旋律が前触れもなくぷつりと止んだ。プロイセンはその瞬間失意に似たものを感じたが、程なく、天井に映る灯火の揺らぎ、中途半端に閉められたカーテンの端にふと過った翳りによって、手を止めた奏者が庭の見える窓辺に立ったことを覚った。
人の邸の庭先で夜風に当たる男の存在を、オーストリアは知っているのだろうか。おっとりした気質故だろう、日頃の古馴染みは見ているこちらが心配になるくらい鈍感なところがあるが、気付いてるよな、と何の根拠もなくプロイセンは確信する。
今し方まで流れていたピアノの音色を反芻するのは簡単なことだった。ライラックの甘い馨りに希釈されたオーストリアの気配の残滓が庭中に薄らと漂っているかのようで、自分が相手の領域に在ることを否が応にも意識する。
恋人へと語りかけるシューベルトの小夜曲の、あざといまでに感傷的な旋律。
世界に冠たる楽都を擁する隣人は、自身が比肩するもののない演奏家でもある。プロイセンが好むのは幾何学的なバランスで成り立ったバッハ的な秩序の世界だが、オーストリアの紡ぐ音楽は彼の耳にも心地好く響く。
如何なる時も品格を失わないオーストリアの演奏は抑制が効いており、裏を返せばねっとりとした情感や重々しさに欠けていた。人によってはそれを美点とも欠落とも評するだろう。
大ホールよりもサロン向きの軽やかさ、表面的な心地好さは、しかしあれの本質ではないだろうともプロイセンは感じていた。手先が器用なだけの空っぽな馬鹿にあれほど豊かな音楽を紡ぎ出せる訳はないと、その道に疎い自分にも容易に想像が付く。しかしその美しい表皮の下に隠された中身が何であるかについては、長い付き合いにも関わらずまるで見当がつかないのだった。
有象無象に囲まれ空々しく微笑むオーストリアを遠くから眺める度、澄み切った湖の水面を覗き混むような冷たい淋しさを覚える。だが何を考えているのかと手を伸ばせば、波紋の乱れによって朧気に浮かんだ姿はあっという間に掻き消えてしまう。であるからこそ、プロイセンは何時までも水辺から離れられないのかもしれない。
息を吸い込めば馥郁たる花の香りが内側から肺腑を充たす。紫の花が喚起する記憶を頼りに、物言わぬ音へと耳を傾けた。そうすれば胸を冷たくする孤独感が多少なりとも薄らぐ。例え永遠に掴めない存在だろうとも、オーストリアの白い頬の感触や唇からふと漏れる呼気は、プロイセンの内側で確かな現実感をもって息づいていた。
小夜曲は恋の歌だ。窓の下に佇み、ナイチンゲールを気取ってギターを奏でながら青年は恋人を誘う。
だが、プロイセンは小夜曲が歌う若者のように愛する人との逢引を望んでいる訳ではない。己の潜む木陰まで下りてくるよう懇願するつもりもない。
見返りを望んでいないのではなく(己の強欲さは自分が一番よく知っている)、プロイセンが欲しいのは人目を忍ぶ、幻のような一時の逢瀬ではないからだ。
中断された演奏が再開される気配はない。オーストリアは今も窓辺からこちらを見下ろしている。中に入りも立ち去りもしない、黙って佇むだけの相手の真意が気になって仕方ないことだろう。ピアノの前に戻っても歌詞と現状を重ね合わせて、プロイセンのことを思い浮かべるに違いない。欲しいのは核心である。相手の思考を、胸の中を自分で埋め尽くしてしまえたら、と。
何も乞わずともオーストリアが体裁を捨てここまで下りてくるのなら、その時は何の遠慮もなく抱き締めてやるつもりでいる。現実には有り得ないと承知しているが、そんな夢想を巡らせるだけでも手軽な幸せは手に入る。
月はまだ中天にあって、夢を見る時間なら充分に残されている。