エンジンの低い唸り、タイヤが砂利道を踏み付けガタガタと音を立てて震動すれば、荷台の上のロマ達はそれすら伴奏の一つとして彼らの旋律を歌い上げた。
擦れた声で切々と胸の内を訴える恋歌。掛け声と手拍子が交錯する軽快な踊り歌。
旅路の無聊を紛らわすよう、何時とも知れず始まった合唱は一向に果てる気配もない。
己の知る曲になればノーアは小さな声でそれに唱和し、エドワードはそんな彼女を見て安堵の表情を浮かべた。
ライララ、ライ、ライ。ララ、ラ、ライ。
踊れ、踊れ。くるくる回れ。
彼らの歌を知らないながら、行きずりの黄金色した兄弟も手を打ち鳴らして時ならぬ舞台に参加した。
ロマの歌を初めて聴くアルフォンスの耳には、それらの旋律は官能的で何処かが物悲しく、しかし通低する部分には猛々しい生命力を内包しているように響く。
それは人の生を凝縮したような輝きで、しかも彼の兄の在り方にとてもよく似ている。
トラックの荷台から眺める風景は先刻から特に代わり映えしない。
背を向けた白い頂のバイエルンアルプスは既に彼方の果てに。兄からは山がちの国だと聞いていたが、今は起伏も少なく緩やかな傾斜を描く丘陵と田園が、景観の中心に取って代わっていた。時折は思い出したように小さな集落が見えることもある。
石造り或いは煉瓦色の建物群、何処かアメストリスの旅空で見た風景にも似て、全てにほんの少しだけ違和感が付き随う。
自然の色彩は冬枯れの灰色をうっすらと纏い、それら世界の全てを覆う天蓋の色は、鋭いまでに澄んだ蒼色をしていた。
己が頭上にも広がる蒼穹を見上げ、アルフォンス・エルリックは空色の瞳を持つもう一人の自分のことを思う。
彼の意識が戻り、兄が目覚めるまでの、短い時間が僥倖となった。
アルフォンスは賭けに勝ち、決心を固めた青年は激昂したエドワードが掴み掛かり、怒声が嗚咽混じりになっても尚、意志を曲げようとはしなかった。
兄弟とノーアは先んじてミュンヘンを後にしたが、遠からず彼も下宿を畳んでハウスホーファーの斡旋した研究所に勤めることになっている。
「何で!殺されかけたのに……よりによってそんな所じゃなくてもいいだろ!?」
エドワードは怒り心頭で、もうお前は何だって出来るのに!いっそ悲痛な調子で自由を主張した。
「だからですよ。健康になって何がしたいと言われても、僕はロケット工学以外を思いつかないんです」
穏やかな笑みは反面強固な盾ともなって、頑迷なまでに友の心配を聞き流そうとする。
「今の情勢では必竟、科学技術は軍事転用の分野でしか注目されない。
先の一揆でヒトラーは逮捕されたけど、遠からずナチス党はこの国の頂点に立ちますよ。拘留中の今でさえ、まるで賓客のような扱いを受けているとも聞きます」
「でも、ヒューズさんだって、党からは手を引くって……エッカルトからお前やノーアを守ってくれたのに」
ゆっくりとハイデリヒは首を振った。その穏やかさに打ちのめされた表情で、エドワードは小さく呻き声を洩らした。
「皆がそうじゃない。人が動くのに正義は……いえ、人を動かすものは全て本人にとっての正義なんですよ。エドワードさんの眼にどう映ろうとも。この国はあの狂気を求めている」
「……お前もか……?」
「いえ。でも今更見なかったふりは出来ない」
確かにハイデリヒの表情に狂気の色はなかった。冬枯れの空の瞳を、彼はエドワードから逸らし、何もない白い壁から何かを透かし見ようとしていた。
「その目的までは知らなかったけれど、それが人を殺す為だと知っていて僕は機体を組み立てたんですよ、あの工場で」
エドワードは否定の声を上げなかったが、縋るような眼差しとシーツの端を掴んだ手が、言葉より雄弁に本心を表していた。
ハイデリヒはそれすら許容するように、ただひたすらに清澄だった。
「被害者のような顔をして逃げたくないんです。僕は罪を犯してでも生きていたい」
彼の言葉はエドワードが旅の混迷の果てに見出だした信条と酷似していて、だからこそ何も言えなくなるだろうことを当人以外の二人は最初から承知していた。
ただ、償いと是正の道程ではない。覚悟を背負い、更なる汚泥に沈む隘路だったが、かつてのエドワードの言葉を借りればそれでも『前に進むことしか出来ない』。
二人が言葉の火花を散らす間アルフォンスがしていたことといえば、
(相変わらず兄さんって命令口調だよなぁ……)
ぼんやり思っていただけである。
結果は最初から見えていた。
アルフォンス・ハイデリヒの思考を己の都合良い方向に誘導することは、同じ名を持つ少年にとって掌の上で転がすくらいの容易さだった。
アルフォンスが彼の立場でも同じことを思っただろう。エドワードの目的を知ったハイデリヒは、言わば敵中に乗り込み、内部からその手助けをすると決意したのだった。
自身が更なる罪を被ってでも、エドワードの理想を護りたい。傍にいて直接的に庇護出来なくても。
蒼穹の瞳に狂気は見えずとも、変わらぬ程の強さで甘い熱情が渦巻いている。
おそらくエドワードやハイデリヒ本人が考える以上に、アルフォンスは異世界の自分と繋がる糸の存在を把握していた。
(だって魂はエキスパートだもんね、僕……)
いくら違って見えようとも、先方にその自覚がなかろうとも、あれは確かに『アルフォンス』という存在だった。
太陽に近付く英雄のように、火中に飛び込む羽虫のように、あのエドワード・エルリックに全身全霊捧げて一片の悔いもない人間なんて、赤の他人である訳がない。
……ただ違いと言えば、アルフォンスの方が少しばかり経験豊富なだけであって。
心ならずも離れていた月日があり、そして今頃は涙で枕を濡らしているであろう彼女や彼の存在を知っているから悟らざるを得ない、最後に勝つのは愛の深さでなく物理的な距離なのだと。
弟が周囲の景色に気を取られていると思い込んでいる兄は、今もこっそり荷物の中から一葉の写真を引っ張り出していた。
人目を盗むように写真へと唇を落とすのを、アルフォンスはしっかりと視界の端に捉えていた。
一瞬目を閉じて、その金色の睫が戦くように震えるのが、奇跡のように美しい。
本来ならこの人が最愛だった弟の手を放してまで『帰還』した時に決着はついていた筈だった。みすみす勝者の座を下りて遠くから熱情にまみれた眼差しを送りたいというのだから、アルフォンスには止める法はない。
「……えっへへー」
「ん、どうした?」
向かいから隣に席を移したアルフォンスが甘えるように肩に凭れかかってきても、素早く上着のポケットに写真を隠しただけでエドワードはされるがままにしていた。
記憶が戻ったと承知していても、実年齢以上に幼い姿の弟に対して限りなく兄は甘くなる。暫らくの間は何をしようとも赦してくれそうな気配だった。
鋼の腕に纏わりついて、密かにアルフォンスはほくそ笑む。
「もうお前を失いたくない、お前がいなければ生きていけない」
不意に、一際澄んだ音が朗々と響き渡った。
「人生は美しい、春の日のように!」
ノーアの声はロマらしからぬ癖のないソプラノで、しかし豊かな声量で力強く空気を震わせる。
「人生は美しい」
ロマ語を解さない兄弟の為にか、彼女はドイツ語で同じフレーズを繰り返した。
「春の日のように!」
情熱的に掻き鳴らされるギターの音が、主旋律に絡み付くよう唱和する。
歌うノーアの笑顔は輝く太陽のようで、ひたむきに生を肯定しようと努力していた。
兄弟と彼女はトラックがベルリンに着いた後に別れることになっていたが、今ばかりは彼女の行手に何の心配もないように思うことが出来た。
「……早くこの世界の春が見たいな」
兄にだけ聞こえるように、アルフォンスは小さく囁いた。
「すぐに春は来る、これからは何度だって見れるさ」
短く切った弟の髪をくしゃくしゃと掻き回して、エドワードは自信たっぷりにそれを請け合った。
〈ほんとうに 完〉
蛇足と言うより、こっちが本編のようになってしまいました……(-_-;)
映画ラストの、エンディングロールが流れたその後、みたいなイメージで。
折角デリヒ生かしたにも関わらず、やっぱり不憫にしたい嫌な管理人です……。
偶然なんですけど、ハイデリヒの命日にアップ出来たのが嬉しかったり(笑)。
イメトレ(?)に何枚かCD聴いて、てきとーなジプシー歌の訳詞はないかも探してたんですが、結局(こっそり)引用したのはジプシーキングです。
悲しくなる程に初心者でした。……だってぴったりだったんだもん(^_^;)