あれは、確か僕らが入山してそんなに経っていなかった頃だと思う。
「皮質の連合野。意味記憶を司るのはココだね。他の生物より人間はこの部分が大きいのが特徴」
雲中子は、いつも通りの無表情。
手には原寸大の人体模型。
縦割りした頭部を指でなぞりながら説明している。
あれは模型なんかじゃなくて、スプーキーによる人体実験の哀れな被害者の頭部を加工したものだ、と当時はまことしやかに囁かれていたもので。
今でも否定する材料を僕は持ってないけど。
「人間は」などと説明しながら、その頭がやや縦に長くて、どう見ても仙人を意識した造りになっていたのが子供心に可笑しかったことを、
――よく、覚えている。
「どうしたの、急に来るなんて」
九宮山は白鶴洞。
やや首を傾けつつ、頭上に光輪を抱く聖人は柔らかな笑みを浮かべる。
弟子に運ばせて来たお茶は一杯のみ。普賢は当然の如くそれに口を付けている。
全く歓迎されていない気配に、太乙真人はこっそりと冷や汗をかいた。
「うん、実はね、太公望のことなんだけどさぁ……」
「望ちゃん?」
にっこりと天使の笑み。しかし、妙に迫力を感じさせるそれに太乙の背筋は凍る。
愛想笑いを返しつつも、太乙は今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られた。
しかし、尻尾を巻いて帰る訳にはいかない。
卓の下、膝の上で拳を握りしめて自分を鼓舞。
頑張れ、頑張れ太乙!あの生意気なクソガキに一矢を報いるにはこれしかないんだっっ!
「うん。……実はね、黙ってようかとも思ってたんだけど……」
ごめんよ楊ゼン君!!
「太公望がマジ恋愛してるって話……知ってたかい?」
「……………」
自分の投下した爆弾の効果を、こっそりと上目遣いに観察。
普賢は、先程と変わらずにこやかな笑みを浮かべている。
ただ、一言も喋らない様子にただならぬものを感じる……かも、しれない。
先日、太乙は楊ゼンに酷い目に遭わされた。
最高傑作にして息子同然のナタクを大破させた上に、数日間雨ざらしにされたのだ。
自分が研究所に籠もっていて発見が遅れたという事実は無視して、太乙は怒った。
もう無茶苦茶怒って、数日寝ないで復讐の方法を考えた挙げ句……普賢をけしかけることにしたのである。
太公望と楊ゼンがただならぬ関係にあること、太乙は何度か下山した際に察してはいた。
太公望が本気かどうかは怪しいところであったが、楊ゼンが首っ丈なのはもう隠す様子すらない態度からも一目瞭然で。
当初は黙っているつもりではあった。
楊ゼンの師匠の玉鼎など、数人にはついぽろっと暴露してしまったのだが特に普賢に対してはトップシークレットだった。
「……ウソでしょ、それ」
「ホントもホント、確かな情報だよ〜?」
「また望ちゃんが冗談半分で振り回してるんじゃない?」
「ま……まさかー……」
流石に親友なだけあって、鋭い。
太乙は顔から血の気が引くのを感じた。
ここで上手く言いくるめなければ、酷い目に遭うのは生意気な天才道士ではなくて嘘の情報を言いに来た自分である。
普賢の親友への執着心にはかなりのものがあるということは、最早崑崙中の知る者ぞ知る定説であった。太公望が絡んだ際の普賢の豹変ぶりに対して、一度実体験してしまった太乙の恐怖たるや相当のものである。
「私も何度か会った時に気付いてね、最初はまさかと思ったんだけどさーあ」
笑顔のままで、目だけは疑わしそうな表情を浮かべるという器用なことをしている普賢に必死で言い募る。
「この前訊いたらさ、本人が認めちゃったんだよね、これが」
嘘です。
確かに「楊ゼン君も騙されてるねー」などと声を掛けたら意味深な笑みを浮かべられたが、どうとでも取れることである。
しかし自分の身の安全の為、太乙は死に物狂いであった。当初の楊ゼンへの復讐という目的は、既に半ば忘れられていたりする。
「…………相手は?」
お、のってきた。
「それは流石に私の口からは……」
「……原子分解……」
………………
「ひいいいいいぃぃっ、ごっっ、ごめんよぅ!!!」
ぽつりと普賢の呟いた言葉に反応して、太乙は平謝りに謝った。
「でもでもっ!!直に会って確かめないと普賢だって信じられないんじゃないかなー、なんて!!ね?ね?ねっっ!!?」
椅子から転げ落ち、背後の壁に張り付いて涙混じりに訴える太乙の哀れな様子になにを感じたか。
「そうだね。太乙の言うとおりかも」
哀れな子羊に慈愛の微笑みを向けると、天使はゆっくりと立ち上がった。
「今から確かめに行って来ようかな。万が一にもなさそうだけど……望ちゃんがその相手に騙されてたりしたら大変だものね」
「うん!うん!!」
「じゃあ、教えてくれて有り難う太乙」
行って来ます、と声を残し、背を向ける。
来客室の扉が閉まり、後には腰を抜かした太乙と空の茶碗だけが残された。
廊下では、突然普賢が言い出した外出に弟子達が混乱しているらしい。騒ぎの様子が扉越しに伝わってくる。
「こ……怖かったぁ……」
半ば放心した様子で、太乙は呟いたのだった。
本当は男らしい太公望プロジェクト遂行の為(笑)戦う師叔の話を書きたいと思ってたんですが。
御津嬢の普賢ちゃんに触発されて、これも書きたいと思ってたこっちの話を急遽先に書くことにしました(苦笑)
本気で突発なので、続きは書けてません。
何話で終わるかも不明だったり。
オチは考えてるのですが、その通りに終わってくれるか私の方が心配してます……(-_-;
普賢ちゃん怖いんだもんよ。←どーゆーイメージですか
私の中では、玉鼎<太乙<楊ゼン<太公望<普賢…という力関係が(何故か)インプットされてます……。