「エピソード記憶。大脳辺縁系にある海馬で記憶を整理するんだけど……大脳辺縁系。この前教えたと思うけど辺縁葉と海馬体、扁桃体。覚えてる?」
「うん、ここに入れた記憶は度々夢に出る。夢というもの自体が記憶の整理の為のものだからね」
「PTSDというのは悪夢の途中で目が覚めること。フラッシュバックとも言う」
「こうやって何度も記憶を巻き戻して夢の中で繰り返すことで、皮質の連合野に整理されるんだね。初めて記憶は消される。逆に言えば、強い記憶は何度も繰り返さないと消えることはないということ」
僕は、ペンを握る望ちゃんの手をそっと包んだ。僅かにその手は血の気を失って、冷たくて。
夜中に何度も魘されて目覚める望ちゃん。
毎晩毎晩、炎と煙の中で家族を失い続ける望ちゃん。心配で、いつしか僕が彼の部屋に泊まることが日常になっても、それでも繰り返される悪夢。
……何も出来ない僕。
全てが脳の働きなら、僕は果てない悪夢が終わる日を待つことしか出来ないんだろうか?
真紅の旗がだらりと垂れ下がっているのを横目で見ると、姫発は忌々しげに舌打ちした。
無風状態が、彼の父の死の記憶と密接に結びついていて精神的外傷を刺激する、訳ではない。
「こら武王。もちっとぐらい真面目なフリでもせんか」
如何にもやる気のなさそうな姫発の態度を、彼の軍師が叱咤する。
眼前では兵士達が、杭やらツルハシ以外では測量の道具と思しき物を手にして、作業に勤しんでいる。皆一様に暑そうだ。
だだっ広い辺り一帯は草木もまばらで、まさに不毛を地でいっている。
「くっそ、楊ゼンの野郎……」
額の汗を手で拭い、姫発は呪いの言葉を吐いた。
元々自分達には関係のない話なのだ。いや、関係ないこともないが。
「軍師様。此処までは完了しましたが」
「うむ。これで良いだろう。後は楊ゼンに確認してもらえ」
「はっ」
現場監督のように指図していた工兵の責任者(らしい)がすっと太公望の傍らに控えると、小さな軍師は大きく頷いた。再び監督は作業現場へ戻る。
やっと一段落ついたかと思いきや、そのまま何事もなかったかのように太公望は前を向いた。
「……なあ、もういいんじゃねーの?帰らないワケ?」
ぼそぼそと呟くと、不機嫌そうな視線が返ってくる。
「……誰の為に暑いのを我慢しとるんだ、こっちは」
勿論楊ゼン……などと本当のことを言おうものなら宝貝で攻撃されそうな気迫を感じ、姫発はしおしおと項垂れた。太公望も暑さでカリカリしている。
ここは一発「生理?」とかギャグで場を和ませなければならないかもしれない。
でも本気で怒られればどうすんだ。つーか絶対怒るな。
一人ボケツッコミを展開する姫発は、暇を持て余している。
それもこれも楊ゼンの所為で、とかいう辺りムカツキ倍増。
要塞建築や街道造りなど、土木建築の責任者は楊ゼンである、というのがいつの間にか周軍に定着した認識である。工兵部隊は彼の下組織されている。
今回、新たに砦を建設することになった時も、議事録の端を机の上で揃えながら太公望はあっさりと、
「じゃ、楊ゼン頼んだぞ」
言い放ったものだ。
楊ゼンも、あの無意味に整った顔に自信満々の笑みを浮かべて、
「任せてください」
とか断言していたはずだが。
……今、楊ゼンは豊邑への使いからまだ帰還していない。
それを命じた太公望の予測では、遅くとも昼前には帰って来るだろうと踏んで昨夜送り出したらしい。
現在、午の刻。一日で最も気温の高い時間帯、の、はず。地面に突き刺さった旗の影から判断出来る。
帰って来ない楊ゼンの代打で、太公望自らが監督に回っている。ついでに、王としての見聞を広める為だとかなんとかいう名目で姫発が引っ張ってこられたのは、災難以外の何物でもなかった。
そして、専門家でもない二人は、こうして時折の報告を聞く以外することもなく炎天下の中突っ立っているという訳である。
上を見上げると、雲一つ無い快晴。天候を左右する神の厚意だとすれば、此程のお節介はないだろう。
「そんなに辛いならおぬしだけでも帰れ。もういいから」
「馬鹿言うんじゃねぇよ」
かくいう自分もお節介焼きかもしれない。姫発はふと思う。
現場に居てもすることはない。だから普段なら太公望は後に報告書に目を通すだけで満足しているはずなのだ。楊ゼン自身が、時には現場の責任者に任せっきりにしていることもあるくらいだから。それがこうしているのは姫発に見学させる為なのだから、確かに姫発の所為とも言える。
しかし今の答えを鑑みると、最早此処で暑さに耐えることだけが目的と化していることは疑いない。
時間配分を読み間違えた罰だかなんだか知らないが、太公望が一人苦しんでいるのを置き去りになど出来る訳がない。
それでなくとも、この軍師は自分に全ての負担を集めようとしている節がある。
姫発だって政務も軍務も面倒くさいことこの上ないし、そもそも出来ることなどたかが知れているのだが。それでも放っておけば、基本的に姫発に甘い軍師が全てをフォローしてしまうことは判り切っているので、却って嫌々ながらも義務を果たすことになる。このか弱そうな彼に、逆に庇われるというのがどうしても嫌なのだ。
親父なら必要以上の負担を掛けたりしないんだろうな……。
いつか越えたいと願う地は果てが見えぬ程遠くに在り、これから重ねていく齢を思うと溜息が深まる。
故人と同じ途を進むのではなくあくまでも自分らしく在ることを選んだ筈が、こうして何のフォローも出来ずに立ち尽くしているばかりの己を自覚すると、自信がなくなる。
意地を張っている相手に痩せ我慢で対抗してもそれこそ不毛だ。
「なぁ、やっぱり……」
口に出した言葉は、無言で射竦められ行き場を失った。心配をされるのが何より嫌いな太公望である。見れば、体力のない彼はかなり辛そうにしている。
どうしようもなく、姫発は天を仰いだ。
楊ゼンでも雨雲でも良いから、何だろうとこの状況を打開出来るものならやって来いってんだ!!
心の中で叫んだ途端、黒い物体が太陽を遮った。
はい、長らくほったらかしになっていた「至福三年」2です……。
なんか、今回はあまり進みませんでした……。予定では普賢ちゃんが出てくるところまで行きたかったのですが。
「普賢メインの楊太」目指してましたが、まるで発太(汗)。ええ、楊ゼンはラスボスなので最後の方まで出てきません……。
それでもよろしければ、とろとろ亀の歩みで続いていく(予定の)この話をよろしくお願いいたします(^^;;